One or Another

児童安心

 

湖のほとりの木陰に、並んで座る大小の影がそれぞれ一つずつ。

広げられたお弁当は赤に緑に黄色。

それを頬張る少女の口元もまた、豊かに彩られているのでした。

「こらこら、セリア。慌てちゃけないよ」

「ふぁーい」

窘めつつも、老婆はにこやかに少女を見守ります。

その時でした。少女の眼が、日差しを受けて煌めく湖の上で、何かが躍ったのを捉えたのです。

しかし少女が瞬きをした頃には既に影の姿はなく、吹き抜けた一陣の風で揺れる水面があるだけでした。

「ねぇ、おばあちゃん」

「なんだい?」

「この湖って、どうして『妖精の湖』っていうの?」

少女の指差す先にあるその湖を見遣ると、老婆は懐かしげに眼を細ます。

「この湖にはね。昔、妖精がいたんだよ」

「妖精が!?」

途端に、少女の瞳が輝きだしました。老婆の膝の上に腰かけると、その顔を一杯に期待で満たし、昔話をねだるのでした。

「私、その話聞きたい!」

「おやおや、どうしようかねぇ……」

老婆は困ったような表情で少し黙りこくっていましたが、可愛い孫にはやはり勝てないと見えて、ゆっくりと、穏やかに語り始めます。

「むかしむかし、この湖が『陽炎の湖』と呼ばれていた頃――」

 

 

 

その頃、近くの村に寝泊まりしている旅の吟遊詩人が、村の娘に勧められて満月の夜にこの湖を訪れました。

雲一つない空に、黄金色の穴がぷかりと浮いています。

澄み切った湖面にもまた、琥珀色の円弧が穏やかな風に合わせてゆらゆらと揺れています。

空の月と水の月、息のむほどに美しい二つの月に吟遊詩人は魅せられてしまいました。

「さて、あの娘には感謝しないとなぁ。これほどの光景と出会えるとは。これで陽炎が出れば……ん?」

この光景をいかにして歌に昇華しようかと思い悩む吟遊詩人でしたが、その視界の端に、あるものが映り込みました。

月光を内と外から発して輝く水面で、光と戯れるように踊る姿。

金の髪がたなびいて、白い肌が青く照らされて、それはどこか怖ろしげでしたが、より一層の幻想的な彩りを踊りに与えています。

吟遊詩人は信じがたいほどに可憐なその舞に見惚れていましたが、はたと気が付くと、慌ててその舞の主の下へと駆けだしました。

「妖精よ! 私は旅の歌い手! よければ私の歌で踊ってはくれないだろうか!」

吟遊詩人の言葉に妖精は足を止め、しばしきょとんとした顔を浮かべていましたが、吟遊詩人が青い月をたたえる歌を歌い始めると、やがてそれに合わせて踊り始めました。

 

 

しばらくの協奏の後、妖精は湖から上がると、吟遊詩人の傍らに腰を下ろします。

妖精の纏う、吟遊詩人には見た事もないような、華奢な布地と繊細な模様の織物がふわりとはためきました。

「君は、本当に妖精なのか?」

吟遊詩人の問いを受けても妖精は答えず、ただ微笑むばかり。

「――お話を、聞かせて欲しいわ」

ようやく口を開いた妖精の言葉に応えるべく、吟遊詩人は意気込んで自分が今まで旅をしてきた国で聞いた話を語って聞かせました。

年を取らない少女の話、赤い目の魔女の話、『月のしずく』で天使が人になった話、お菓子で出来たお城の話……。

妖精はただ黙って、穏やかな表情でその話に耳を傾けます。二人は何時間もそうしていましたが、月が落ちて朝がやってくると妖精は立ち上がり、

「話をありがとう。楽しかった」

吟遊詩人に別れを告げて、湖の中へと歩を進めていきます。

「待ってくれ!」

しかし、吟遊詩人は諦めきれません。その背中を呼び止めると、

「まだ、話はたくさんある。今日の晩もまたここに来るから、また踊ってくれないか?」

妖精は始めの時と同じように面喰らっていましたが、やがてこくりと頷きました。そして吟遊詩人へと少しだけ手を振ると、湖の中へと飛び込んで消えて行くのでした。

 

 

その日の晩から、湖には澄み切った歌声と美しい影が躍り始めることになります。二人はしばらく歌と踊りを続けると、ほとりで寄り添いながら吟遊詩人が話をし、日が昇ると別れる。

単純な繰り返しでしたが、二人は決して飽きる事はありません。

二人が会う様になって、七日ほど過ぎたある日の朝の事でした。

妖精に手を振られて、吟遊詩人が去った後、妖精はそのまま湖から引き返すと、ほとりにあった自分の服を取りに戻ります。

しかし、ちゃんと置いておいたはずの服はそこになく、慌てて探しますがあたりに服は見当たりません。

妖精がどうしようかと途方に暮れた時、

「妖精さん、お探しのものはこれ?」

木の陰から、一人の少女が現れました。その手には失くしたと思っていた服があり、妖精は胸を撫で下ろします。

「ありがとう、それは私のものなの」

お礼を述べて手を伸ばしますが、少女に服を返そうという気配は見えません。どころか、刺々しさに溢れた視線で妖精を見返すと、

「あの人に近寄らないで」

「……え?」

「私、知ってるんだからね。あなたが妖精なんかじゃないんだって」

突きつけられた言葉に、妖精がびくりと体を震わせます。

実はこの少女は、吟遊詩人が寝泊まりしている村の娘で、この湖を教えたのもこの少女なのでした。

親の無いこの少女は、湖近くの村に拾われた子供の一人で、畑を耕したり収穫の手伝いをしたりして、村の一員として扱ってもらってはいましたが、家族というものに憧れを強い憧れを持っていたのです。

「私、あの人と家族になりたいの。なのに……」

密かに慕っている吟遊詩人が、満月の晩から毎晩のように湖に通っていることをいぶかしんで、こっそりと跡をつけてみれば、意中の彼は見知らぬ少女と一晩中仲睦まじく話しているではありませんか。

それから、妖精の正体を怪しんだ少女は、真実を突き止めるべく妖精の周りを調べたりしていたのでした。

「……私のご主人は、そろそろこの辺りを離れるわ」

呟く妖精は悲しげでしたが、どこか諦めた風もあります。

妖精は本当に妖精などではなく、お金持ちに仕える踊り子の一人なのでした。

「離れたら、もうこの辺りには近寄らないって誓うわ。これでいい?」

少女は黙って首を縦に振ると、ぶっきらぼうに服を突き返しました。そして妖精に背を向けると、足音荒く去っていきます。

妖精とて、ここに残りたい気持ちが無いわけではありませんでした。少女と同じ様に、近くの村に受け入れてもらえるかもしれないと望みを抱いていたのです。

ですが、力のある主人ですから、ただ逃げたところですぐ捕まってしまう事はわかっていたし、またそうなってきた仲間を何人も見て来たのです。

か細い腕で、自分の服をかき抱くと、妖精はある決心を固めるのでした。

 

 

「……もう、ここには来られないの」

その日の晩、踊りを終えた妖精は吟遊詩人にそう告げました。驚きの余り、何も言えずにいる吟遊詩人を置いて、妖精は言葉を続けます。

「妖精たちの王様が、人間と仲良くなってはいけないと。私は次に月が昇って、それが沈んだとき、この湖に揺れる陽炎になってしまう」

「そんな……」

それ以上何も言葉を発せない二人は、ただ肩を寄せ合って月を眺めていましたが、吟遊詩人はひたすらどうにかならないか頭を巡らせていしました。

その時、妖精の話した話の一つが頭を過ったのです。

「『月のしずく』……」

「え?」

「僕と賭けをしよう」

吟遊詩人の脳裏に浮かんだのは、彼女に話して聞かせた話の一つに登場した不思議な道具。

「少女が永遠に同じ姿をとり続けられるという、あれがあれば」

「でも、それは伝説で……」

「僕が来るまで諦めないと、約束してくれ」

吟遊詩人は譫言の様に呟いて立ち上がると、制止する妖精の声も聞かずに、どこかへと走り去るのでした。

 

 

村に戻った吟遊詩人は、村人に馬の準備を頼み込み、その支度が済む間にとある家へと向かいました。

身寄りのない子供が集められた、村長の家。

「夜遅くに申し訳ありません」

「いいえ。それで、お呼びなのはこの子でしたかな?」

件の少女が、村長の後ろからおそるおそる顔を覗かせます。呼んだ人間が思い人の吟遊詩人であると知って、深夜に起こされたにも関わらず、少女は顔をほころばせます。

「どうしたんですか?」

「こんな夜更けに申し訳ないね。いつか言っていた、『月のしずく』について教えてほしいんだ」

『月のしずく』の話を今尋ねてきたことに、察しの良い少女はそれが誰のためなのかまでを理解しました。

そのうえで、果たして『月のしずく』の在り処を教えるべきか。

しかし少女は迷うことなく、

「『日没の森』の一番奥に、あると聞いたことがあります。花の形をしているとか」

「……ありがとう」

「あの森には、大きな獣がいるという噂です。お気をつけて」

少女の気遣いにもう一度礼を言ってから、吟遊詩人は少女の家を辞しました。

その背中を見送りながら、少女は何故答えてしまったのだろうかと、自分で自分に問いかけます。

「私は、どうしたいんだろう……」

少女が呟いたのを、村長の耳が拾いました。村長は屈みこむと、少女と目線を合わせて、その手を自分の大きな手で包み込みます。

「――お前は、お前のしたいことをしなさい。どんな子でも、儂を頼ってくれるなら、儂はその子の味方になろう」

その力強い言葉に、少女は意を決して、吟遊詩人と妖精の事を語り始めたのでした。

 

 

吟遊詩人は、用意してもらった馬に跨ると、一路、村の西にあるという森を目指します。

森に着いた頃には既に夜が明け、吟遊詩人も疲れ始めていましたが、一度声を上げると気合いを入れ直し、馬を駆って森へ入りました。

朝焼けの陽さえも通さないほどに、木々が蔓延ったその森は、確かにその名の通り『日没』という言葉がふさわしいように思えます。

方位磁針を見ながら、何度か馬を休ませつつ森を進んでいく吟遊詩人。旅に慣れた彼は、森に入ってからすぐ、何かの自分を見張るものの気配を感じていました。

しかし、今の彼に怯えている暇などなく、只々馬と共に森の奥へと進んでいきます。

森の外でも日が落ち始めた頃、突然吟遊詩人の疾走する馬と並走してくるものがありました。

灰色の体毛に、銀色に輝く牙。夜の帳においてもはっきりそれとわかるほどに、爛々と燃える獣の瞳。

「狼か!」

吟遊詩人の背丈よりも大きい狼が、彼の馬を追って迫ってくるのです。しかも一匹では無く群れなのか、四匹ほどが左右に分かれて追ってきます。

今でこそまだ距離がありますが、いずれ追いつかれてしまうでしょう。たとえ振り切れるような速さを出せたとして、それが長続きするとは到底思えません。

必死に考える吟遊詩人の下で、馬が恐怖の余りいななきました。暴れ始めた馬はもはやいう事を聞かず、後ろに落とされれば狼の餌食になってしまいます。

「ええい! こうなれば!」

馬の体が前に傾いたとき、吟遊詩人は思い切って手綱を離し、前へと飛びました。

高さのあるところから落ちたので、吟遊詩人は幾らか怪我をしましたが、幸いにも狼は乗り手を失い迷走を始めた馬を追っていきます。

血が出ないようきつく縛ると、吟遊詩人は自分の足で西を目指し始めました。

痛む手と足を抱えて、どれほど歩いたでしょうか。今やも限界に近づき始めた吟遊詩人の前で、急に森が切れました。

開けた視界一杯に、ビロードの闇と金色の星々、青白い月が浮かんでいます。

満天の空に我が目を疑う吟遊詩人でしたが、切り立った崖の先に注がれることになりました。

 

昇り始めた月から零れるように咲く、純白の花。

 

吟遊詩人は花の傍にひざまずくと、震える手で恐る恐るその花を手にとります。

花に心中で許しを請いながら、疲れた体に鞭打って、吟遊詩人は走り出しました。

 

 

深夜、月も頂点を過ぎた頃、森の入口に近づく影が一つ。吟遊詩人を心配した少女が村長と共に、馬を借りてここまで来たのでした。

そして、そこには、すでに息も絶え絶えと為った吟遊詩人が横たわっていたのです。それでも懸命に進もうと腕で体を引き摺っていますが、体は着いて行かないようでした。

少女が悲鳴をこらえて、彼の傍まで駆け寄ります。自分を呼ぶ声に吟遊詩人は薄く目を開けると、

「ああ、……君か」

「大丈夫ですか?! 今、馬がありますからお医者様を呼んで……」

吟遊詩人は、走って行こうとする少女の腕を強く強く掴みました。

「僕の事はいいんだ。それより、あの子にこれを……」

「これって……」

少女の手にあるのは、一輪の白い花。まるで空から降ってきたかに思えるほど、穢れの無い白。

「……僕は、間に合わなかったけれど、せめて愛の証にこれを」

その言葉に、少女の心が震えます。声も震え、返事は弱弱しく、本人にすら聞き取れません。少女は気付いてしまったのです、いいえわかっていたことを思い知らされたのです。

彼は、妖精以外はなにも見ていないのでした。少女はもちろんのこと、自分すら要らないという覚悟が彼にはあったのです。

「もう一つ、彼女に伝えてほしい。……幸せになってくれ、と」

それが彼の最後の言葉でした。静かに、幸せそうに微笑んだまま。彼はいつか妖精との踊りを心待ちにしたまま、眠りについたのです。

彼の腕から力が抜けて、少女は解放されました。

少女の手には白い花。

その白さに少女は、これからの自身が行おうとしていることが試されているような気がしました。しかし少女は涙をぬぐうと、決して負けまいとその眼に決意に満ちた光を宿すのです。

 

 

夜も白みはじめ、月が光に呑まれかけているのを見守りながら、妖精は湖のほとりで彼を待ち続けていました。

湖をじっと眺めていると、陽炎が立ち上って楽しげに踊っています。それを見た妖精が口遊むのは、彼の歌ってくれた歌。

始めは、来ないかもしれず、それでもいいと思っていた妖精でしたが、彼のいない一晩を過ごすと、それはただの虚勢で、彼と共に過ごした日々は到底忘れられるものではないことが、まざまざと思い知らされるのです。

妖精は祈るような気持ちで、彼を待ちました。

不意に彼方から、馬のいななきが響きます。

妖精が振り返ると、こちらへやってくる馬の姿が目に入りました。しかし、期待の気持ちは馬が近づくほどにしぼんでいきます。

馬上にいるのは彼では無く、あの少女。

「あなたなのね……」

険のある言い方に答えず、少女は馬を下りると、彼から預かった花を差し出しました。

そして、

「あの人は、死んだわ」

妖精の瞳から、涙が零れ落ちます。対して少女は泣いたりはしませんでした。

悲しくないのではありません。ここまで来るのに、涙を流しつくしてしまったのです。

「代わりに、渡してくれと頼まれたの」

「これが何よ!? こんなものあったって……、あの人が死んでしまったら……」

その花は確かに『月のしずく』と呼ばれる花でしたが、吟遊詩人の語った話のような力はないのでした。

しかし少女は、泣き崩れる妖精の手を取って、その手に花を握らせます。少女は妖精の顔を上げさせると、

「あのね、私、わかったの。私はね、あの人の役に立ちたかったんだって」

妖精とは対照的に、少女の顔はとても晴れやかでした。

「あの人が、あなたに『幸せになってくれ』って」

「幸せに……」

妖精の手には花。

その白さに妖精は、これからの自身が行おうとしていることが試されているような気がしました。しかし妖精は涙をぬぐうと、決して負けまいとその眼に決意に満ちた光を宿すのです。

 

 

「――頼みがあるの」

「なに?」

片方が片方に耳打ちをします。

「……それでいいの?」

提案した彼女が頷くと、迷いを持っていたもう片方も頷きました。

「「幸せになってね」」

二人は同時につぶやくと、片方は湖へ、片方は村へと。

片方は彼の望まない幸せへ、片方は彼の望む幸せへ。

その日、一人の少女が湖へと身を投げました。

村に向かった少女は、話を聞いて待っていた村長に手厚く迎えられました。

何があったのかを尋ねられた少女がこの吟遊詩人と妖精の話をすると、たくさんの村人が悲しみの声を上げました。

それから村を訪ねてきた別の旅の吟遊詩人によって話は広められ、いつしか陽炎の湖は妖精の湖と呼ばれるようになったのです。

湖に踊る陽炎は、いつかくる思い人を待つ妖精の姿なのだ、と。

 

 

「――悲しい話だろう?」

「……うん」

少女の伏せた目に、ちらりとまた陽炎が映りました。しかし少女は、意を決して立ち上がると、自分の知っている歌を歌い始めます。

「セリア、どうしたんだい?」

「妖精さんに、ちゃんと帰って来たんだよ、って教えてあげようと思ったの!」

驚く老婆の前で、少女は声を張り上げて歌を歌います。結局、日が傾くまで、少女は喉を枯らしたのでした。

「……ど、がらがらにな、っちゃった」

「でもきっと、妖精も報われたよ。ありがとう、セリア」

老婆に撫でられて、少女は嬉しそうにはしゃぎます。そのままの勢いで、少女は村へと駆けだしていきました。

「おばあちゃん、はやくー!」

「はいはい」

急かす孫に答えながら、老婆は湖を振り返ると、

「――私は、今、幸せだよ」

小さな影と大きな影が仲良く手をつないで、純白の花畑の中を帰って行くのを、妖精は静かに見守っているのでした。