鏡の中

児童安心

私がその少女と初めて出会ったのは、穏やかな春の日差しの中だった。洗面所で顔を洗っていると、目の前の鏡に映った屋敷の前庭に彼女はいた。透き通るようなブロンドの髪、真っ赤な頬、ぷっくりした唇。弾けるような笑顔を浮かべて無邪気に蝶を追いかけるその姿を私は最初、妖精かと目を疑った覚えがある。

呆けていた状態から戻り、慌てて振り向くとそこに少女の姿は無い。孤独が、悲しみを引きつれて私の胸に去来する。妻と娘を失った悲しみが見せた幻影は、酷く残酷なものだった。

頭を振って孤独の影から目を背けて鏡に目線を戻すと、そこに少女はいた。素早く振り返るがそこに少女はおらず、戸惑いながらも鏡に目を戻すと、少女が膝を折って何かを見ている――ということを二度繰り返して、ようやく私の頭は理解した。

この少女は、鏡の中に居るのだと。

私がこの屋敷に越してきたのは、つい一月ほど前になる。見た所とてもきれいな屋敷だが、驚くほど家賃は安い。理由は簡単で、曰くがあるからだ。大事なものが無くなるとか、家具の位置が動いているとか、引っ越した家族の数は数えきれないらしい。何故そんな場所に移り住んできたのかと言えば、簡単に言うと私が自棄になっていたからだった。

私が前に住んでいた屋敷は、火事で焼け落ちた。その頃私は会社を経営しており、それを妬んだ誰かが放火をしただとか、私の進めていた事業の反対派の仕業だとか色々な話があったが、そんなことはもうどうでもよかった。

そう、屋敷などどうでもよかったのだ。最愛の妻と娘さえ生きていてくれれば、それで。二人という宝物と同時に、私は心の支えを失った。何をするにもやる気が起きず、寝ても覚めても失った二人との日々が脳裏を過り、何をしても手につかない。周囲に迷惑をかける前に私は社長の座を譲り、隠居することにした。当時の部下や友人、たくさんの人間が私を引き留めたが、私はそれらを全て無視した。一人の目をかけてやっていた部下が、何かと世話を焼いてくれたが、私はそれにも冷たい態度で答えた。

私は、静かに暮らしたかったのだ。

鏡の中に居る少女を発見した次の日から、私は彼女の観察を日課にしてみることにした。

まず彼女は、鏡――というよりなにか映る物――の中で生活しているようだ。食事や睡眠は不必要なのかもしれないが、したければするらしく、時折少女は棚の高い所にしまってある菓子類を手に入れようと努力していたり、鏡の向こうのソファですやすやと眠っていたりしていた。

次に、彼女は映る物から映る物へと移動しているようだ。鏡に映っている景色で遊び飽きたら、その鏡を映している何かに移動する。その移動の過程は私には不明だが、どうやらそれを映していればなんでもいいらしく、水や金属、ガラスはもちろん時折私の瞳さえも利用しているようだ。

他にも向こうの世界と物や人は、少女を除いて共通らしい。鏡に映っている物をこちらの世界で動かしたら向こうが動くのは当然だが、少女が向こうで物を動かせばこちらでも動く。これがこの屋敷の一連の怪奇現象の正体だったようだ。

そして少女は、基本的に無害である。ただ無邪気に遊んでいるだけだし、棚の食糧を食べられたり悪戯を受けたりすることはあったが、正体を知っていれば可愛いものだ。

彼女を観察している内に、彼女の方も私が自分を見ていることに気が付いた。最初は私を警戒していたが、私が自分を怖がらないと気付き、少しずつ近づいてきてくれるようになり、お菓子を一緒に食べたり、絵本を一緒に読んだりするようになった。

それから彼女は字が読めなかったので、私の日課は彼女に字を教えることになった。音がやりとりできないので筆談で教えたのだが、音が出せなくて難儀したり、途中で少女が飽きてしまったりと大変だった。

ただし二人とも時間だけはたっぷりあったので、やがて彼女は字を書くことを覚え、私たちは筆談で意思疎通ができるようになった。筆談ができるようになって少し経ち、私は彼女に今までずっと抱えていたとある疑問をぶつけた。

『なぜ、時々悲しそうな顔をするの?』

そう、普段は天真爛漫な彼女が、ふとした時に見せる悲しそうな顔。それを見るたび、私の胸は締め付けられるように痛むのだ。私が彼女の観察を始めたのは、自分の寂しさを紛らわすためだった。しかし少女を見ている内に、私の傷ついた心は少しずつ癒されていた。だからこそ、少女の寂しさを埋められるのなら、私は全力を尽くしてやりたかったのだ。

少女はわずかに躊躇いながら、紙に何かを書いた。

『このおうちは好き。でも、出られないのが悲しい』

私の日課は次の日から、彼女を外に連れ出すことに変わった。

最初は彼女を私の瞳に映して正門から出た後、手鏡に移るという方法を試したのだが、いざ敷地の外で手鏡に移ってもらおうとすると、彼女がいないことに気付いた。急いで屋敷に戻ってみると、少女は玄関の鏡の中で悲しそうにうずくまっていた。

その後、色々と条件を変えてみたが、結果から言うと彼女を敷地の外に連れていく事はできなかった。何を使っても時間帯を変えても場所を変えても、どう足掻いても無理だった。

自分の力だけでは無理だと悟った私は、国内外のオカルトマニア

に似たような話が無いかと聞いたり、かつての部下に頼んで色々な文献を取り寄せて調べたりした。黒魔術的なものにも手を出そうかと考えたが、私のその素質はなさそうだった。代わってもらえればいいが、現代に魔術師や魔女が存在するとも思えない。オカルトマニアの中には、「自分ならできる」という人間も何人かいたが、信用できずに断った。

彼女を敷地の外に出すことだけに傾倒し始め、愚かにも本来の目的である彼女を寂しがらせないという目的を忘れてしまいそうになった私を止めたのは、日本の友人の一言だった。

『出られないのなら、屋敷の中を愉しくすればいいんじゃないかな』

雷に打たれたような衝撃だった。そのままふらふらと書斎を出て彼女を探すと、少女は鏡の中で一人、つまらなそうに遊んでいた。

しかし、私を久しぶりに見た彼女は、鏡の向こうの私に飛びついて、とても嬉しそうに笑ってくれた。私も釣られて、顔がほころぶ。そうだ、大事なのは一緒に居る事。二人が居ればそれが何処かなんて、実に些細な事なのだ。

その一日を彼女と一緒に遊ぶことに費やし、その夜私はある決心をした。この家を、いつでも彼女と一緒に居られる家にするのだ。

それが約二十年前の話。今私は、部屋のベッドに横たわっていた。右を向くと、鏡張りの壁にベッドに横たわって苦しそうに喘いでいる老人が映った。

私は、屋敷の全ての部屋と廊下の一面を、鏡にしたのだった。少女が屋敷の何処にでもいられるように、少女と屋敷でどこでも一緒に居られるように。

だが私はすぐ、少女と一緒にはいられなくなるだろう。彼女を悲しませないように、かつての部下にとある人間を捜してもらって会う約束をしたのだが、果たして間に合うだろうか。

少女は心配そうに鏡の向こうで私の傍に寄り添っていてくれていた。紙を取り出すとさらさらと文字を綴り、『大丈夫?』と書かれた紙を見せてくる。答えようと傍らにあるペンをどうにか手に取ったものの、握ることができずにペンは床に落ちてしまった。驚愕する彼女に、力を振り絞って少しだけ首を縦に動かして答える。最早筆談も出来ない程に、私の体は弱り切っていた。

目の端に涙を湛えた少女は、なにか紙に走り書きをすると、それを放り投げて部屋を飛び出していく。少しだけ体を起こして見てみると、床に落ちた紙にはただ一言、『うそつき』とだけ書かれていた。

これではいけない。彼女を悲しませてはいけないのだ、私の命が終わる前に早く、来てくれ――

「社長、お客様をお連れしました」

かつての部下。未だに私の事を社長と呼ぶ男が、部屋に入ってきた。鏡で確認すると、男の隣には小柄な人影がある。人影はすたすたと歩み寄ってくると、持っていた杖で私の額に触れた。

『さて、依頼をお聞きしますわ』

目の前の存在の口は動いていない、まるで私の心に直接語りかけ

てくるように声が響く。これは有難い、口を動かさずに済むのだから。私は心に、最後のたった一つの願いを強く念じた。

『あの子を、ここから出してあげてくれ――

人影はこくりと頷くと、踵を返して部屋を出て行った。これでいい、もうこれで――何も思い残すことは無い。今強く念じたことで、残っていた力をすべて使ってしまった私の瞼は、意思と関係なく勝手に閉じた。

……段々、眠くなってきた。ここで意識が途切れたら、もう二度と目覚めることは無いのだろう。

永遠の眠りにつこうとする私の首のあたりに、誰かが飛びついてくる衝撃が走った。ほとんど上がらない瞼をわずかに押し上げると、ぼんやりと、しかし見慣れたシルエットがそこにあった。

――いままでありがとう!』

言葉と共に、温かい雫が幾つも私の顔に落ちてきたのを感じる。

『君が笑ってくれているのなら、私はそれでいいんだよ。だから、ずっと笑っていてほしい』

そう心に浮かべた思いは伝わったのだろうか。

ただ、最後に見た少女の顔は、確かに笑顔だった。



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