床下の洗濯室  風観 吹



 気が付くと、私は私を見下ろしていました。

 黒焦げのコートを抱きしめて、胸から血を流している私の体が乾燥室から運び出されていったあと、どうなったのかはわかりません。

 しかし、私は今でもここにいます。霊というのでしょう、そういうものになって、地下の洗濯室と乾燥室を行ったり来たりして、洗濯をし続けました。

 旦那様のお召し物を他の女が洗濯している姿は見るに堪えませんでしたので、私は彼女の洗濯物を奪い、自分で洗濯しました。

 旦那様のお召し物は私にしか洗えないのです。

 頭の中に浮かぶ旦那様のあの優しいお顔が、私の原動力となっていました。

 そんなことを続けているうちに、地下室からは人が消えていきました。無理もありません。彼女たちには私が見えないのですから。ひとりでに旦那様のお召し物が洗濯されている光景は、さぞ気味の悪いものでしたでしょう。

 いつしか洗濯室にも乾燥室にも誰もいなくなりました。当たり前です。薄暗くてじめじめしていて、その上霊が棲んでいる地下室になんて、誰もいたくありません。

 戸の外から釘で板か何かを打ち付けるような音がしたので、この地下室はもう閉鎖されたのでしょう。

 洗濯女中がいなくなると、当然のように洗濯物もなくなりました。今は誰が洗っているのでしょうか。

 やることが奪われた私の頭に浮かぶのは、旦那様でした。

 私がこの手で洗い、乾燥させ、アイロンをかけ、糊付けをしたお召し物を華麗に着こなす旦那様の凛々しいお姿。そして、私にお褒めの言葉をかけてくださる端正なつくりの立派なお顔。お会いしたくて仕方のないお方……。

 狂ったように私は旦那様を求めました。旦那様のことしか考えられません。

 私は旦那様のことを愛していたのだと、死んで初めて気付くことができました。

 それから私は旦那様に気づいていただけるよう努力をし続けてきました。

 叫び、戸を叩き、壁を叩き、天井を叩き、歌い、何かを呪い……。様々なことをし続けてきました。

 旦那様のお姿を拝見したい。せめて、もう一度だけでも。

 私は、叫び、叩き続けました。

 私にはこの暗く湿ったホコリだらけの地下室の外のことは何もわかりませんし、今がいつなのかもわかりません。

 それでも、私は頑張りました。

 そして、ついに私の努力が報われる日が来たのです。

 戸の外から何かを剥がすような音が聞こえます。きっと、執事さんか誰かが戸に打ち付けた板を外しているのでしょう。

 そして、またあの時のように私を旦那様の許へ導いてくれるのです。

 私は心を躍らせて戸が開くのを待ちました。

 ぎいぎいと音を立てて、ついに戸が開きました。

 暗い地下室に入ってきたのは、ランプを持った殿方でした。

 ランプの橙色の光に照らし出されたのは、長い口髭を蓄え、栗色と白色とが入り混じった長髪を雑に束ねた、片眼鏡が特徴的なお方。

 目から涙が溢れて参りました。

 とてもお痩せになり、老け込んでやつれたお顔になっていらっしゃいますが、この方は旦那様に、私がお慕いしてやまない旦那様に間違いありません。

直接来てくださるなど夢にも思いませんでした。

 旦那様は私が見えていらっしゃるようで、私を見つめておいでです。ですが、その目は以前とは違い、どこか虚ろでした。

「妻は死に、子供たちも逝ってしまった。もう、ここには誰もいない。私と、お前以外には」

 弱々しくも、心地よい低さのお声をお聞かせくださいながら、旦那様はゆっくりと私に近づいて来られます。

 私は喜びと緊張と恐縮のあまり動くことができません。

「呪うなら、私を呪え。私を殺せ。回りくどいことなどせずに、直接手を下せばいい」

 私には旦那様の言うことが理解できませんでした。わかるのはただ旦那様が私を求めているということだけです。

 なんと光栄なことでしょう!

 私は旦那様の手を取り、しっかりと握りしめました。そのお顔はとても満足そうで、私の心は躍りました。

 しかし、旦那様は石畳の冷たい床に崩れ落ちてしまいました。

 何が起きたのかはわかりません。ですが、いくら呼びかけても、揺すっても、旦那様に動く気配はありません。息もしていないようです。

 ふと、私は旦那様のお召し物が汚れていることに気が付きました。しばらく洗っていないのでしょう、ベストやズボンはゴミやホコリにまみれていて、シャツはよれてしまっています。

 やはり、他の者に旦那様のお召し物を任せることはできなかったのです。

 私は旦那様のベストをそっと脱がして差し上げました。

 久々の洗濯物です。旦那様のご期待に沿うため、完璧に仕上げて差し上げましょう。

 

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