別離の接吻は紫煙の味
如月悠
こういう女に会ったんだ。
季節は冬。身体も冷たければ、懐も寒い時期だった。
だから、偶然訪れた寂れた街の、そのまたさらに裏路地にあるような廃れた宿に泊まる羽目になったんだ。
ぎしぎしと鳴る階段を上り、妙に狭い廊下を抜け、さび付いたノブを回して扉を開けると、
「あなたが今日のお客さん?」
そこには一人の女が居た。
ブロンドの髪に赤いドレス。
しかし、そのドレスは覆っているはずの身体が透けるほど薄く、その女性の妖艶さを際立たせていた。
「誰だ、お前は」
そう問うと、
「あれ?もしかしてお客さん。ここのこと全く知らずに来たの?」
「ここのこと?」
「あぁ、本当に知らずに来たんだ。ここは、売春宿よ」
なるほど。
この町でも売春は犯罪だ。だけど、裏通りに入ればそういう客引きもあったし、ここもそういうことだったんだろう。
「あいにく、看板には普通の宿って書いてあったからな」
「そりゃあ、看板に売春宿なんて書いたら、あっという間に私の手も後ろに回っちゃうわ」
「まぁ、確かに」
「ま、ここ、前は普通の宿だったんだけど、人気なくてね。そうでもしないと……」
「女付きの宿にしても安かったけどな」
「全く……。不況はつらいわね」
言いながら彼女は持っていた煙草に火をともした。
強く甘いにおいの紫煙が部屋に充満する。
「ふぅ、……そっか。でも私、お仕事の決まりで一度入ったら朝まで出られないの。ごめんね」
「ま、いいさ」
その後しばらく二人の間に会話はなく、僕はただ黒い木の壁に映るランタンの淡い光をぼぅっと見つめていた。
最初に口を開いたのは彼女だった。
「それにしてもどうして、こんなところに」
小さな冷蔵庫の上に置かれていた灰皿に短くなった煙草を捨てると、ベッドの上、既に座っていた僕のそばに腰掛ける。
「こんな街に外から来る奴らは稀よ。そんでもって、だいたい二種類に分けられるの。変人か、変態か」
「それなら僕は前者だな」
「やっぱり変態じゃない」
「あんた、口にした順番も覚えられないのか」
「やだ、冗談よ」
自分の冗談に女はクスクスと笑った。その笑いは上品なそれだった。
「あんたも、色々と事情がありそうだな」
「あら」
女は一瞬驚いた表情を浮かべた。
「まさか笑い方一つでそんなことがわかるなんて、マジシャンかなにか?」
「別に」
僕がそう返した後、女は二本目の煙草に火をつけた。
またしばらく沈黙が場を支配して、そして、
「昔は大きなお屋敷に住んでたわ」
「へぇ」
「綺麗なお庭に、大きな噴水。夢のような場所ね」
女は煙草から口を離すたび、その煙のように少しずつ自分の情報を漏らしていった。
「まぁ、でも私はいわゆる前妻の子で。立場は良くなかったのよ。だから、家がなくなっちゃったときに、引き取ってくれるところもなくて」
「で、ここに」
そう返すと、彼女は首を振る。
「ここを知ったのはその少し後の話よ。最初は一人旅、いいえ。旅と言うより、ただふらふらしてただけなのよ。あっちへふらふら、こっちへふらふら」
「よく死ななかったな」
これだけ綺麗な女がふらふらしてて、襲われたり死なないのは珍しい。
「身を守る方法くらいは、知ってたから。最初住んでた橋の下で、ご近所さんが教えてくれたのよ」
女はその頃を懐かしむかのように小さく笑って、煙草をもみ消す。そうして、三本目。
「ウェイトレス、ディーラー、ガールズバーの店員もやったわ。後は、手癖の悪いことも少しだけ」
「ま、殺してないだけマシだ」
「お兄さんは人を殺すの?」
目を丸くして、女は少しだけ距離を取る。
「まさか。ただ、道中よく見るんだ。死体」
「なるほどね。ま、私はそんなわけでここに流れ着いたってわけ」
「色々話が複雑で、理解しにくかったな」
「私に順番も覚えられないの、って言っといてそれ?」
女はあきれ顔を浮かべた。
「冗談だよ」
「……もう」
もう何度目かわからないほどの紫煙を最後にはき出すと、女はまだ長かったその三本目を灰皿に捨てた。
「でも、それも今日で終わり」
「え?」
唐突に呟いたそんな言葉に、僕はあっけにとられる。
「お金がね、貯まったのよ。この街を出て、生活できるくらいの」
「へぇ。でも、何をするんだ」
「今度はね、旅をしようと思ってるの。あっちへふらふら、こっちへふらふら」
「そうしてまたここに、か」
「それはない方が嬉しいわね……」
そうならないくらいのお金は貯めてるつもり。彼女はそう付け足す。
「っていうことで、しばらくこんな稼業ともおさらば。もし私を味わいたいなら、今日がラストチャンスよ」
「やめとけやめとけ。そんなことしたら、僕たちのどっちかが早死にしかねない」
往年の映画に良くある、別れの一幕を再現する気はなかった。
「確かに不吉かしらね。寝ましょうか」
「そうだな」
そうして毛布をかぶった僕の横から、女は離れようとしない。
「おい……」
「あら。この部屋のベッドはこれ一つでしょ。それに、毛布だけじゃここは寒いわよ」
「しかし」
「お金はもらってるんだし、このくらいはさせなさいよ。最後のお客さん」
「はぁ……」
ランプが消えた暗い部屋だと、生々しい感触がより強く感じられた。
久方ぶりの人の温度、人の香り。そんな者に包まれて、いつしか僕は緩やかな眠りについていた。
朝起きると、女は消えていた。
まぁ、目覚めは快調。悪くない気分だった。
目的地を確認して、部屋を出る。鍵を返して、街の出入り口である門に向かう道すがら。
「おーい」
「ん?」
前方から聞こえる声。顔を上げると、門の所に人影があった。
「あれは……」
近づくにつれてはっきりとするシルエット。昨日と違ってしっかりとした服装だったが、それは間違いなくあの女だった。
「ここで待ってれば、絶対に会えると思ってね」
「昨日のあれ、本当だったのか」
「嘘だと思ってた?」
足下のでかい鞄を少し持ち上げながら、にこやかな笑みを浮かべる。
「少しだけな」
「あら、信頼ないわね。私はこれから西へ向かうつもりよ」
「西か。僕は東だ」
「あら残念。それじゃ、ここでしばらくの別れってわけね」
「そうだ……」
そうだな、そう言おうとしたんだが、その唇はうまいことふさがれてしまっていた。
数秒後に離れた唇からは、少しだけ煙のにおいがした。
「別れの挨拶よ。またあったらもう一度してあげるね。私、うまいのよ。何度もしたくなるってよく言われたわ」
「……ま、そうじゃないと稼げないからな」
別れのキスも不吉だな、そんな野暮なことを口走るのは避けた。
なに、死ななければいいだけの話だ。お互いに。
「それじゃ、またね」
地面に置かれていた荷物を手に取り、彼女は歩き出す。
「おい。名前も聞いてないのに、またあったときに僕のことがわかるのか?」
僕が大声でそう聞くと、振り向いた彼女は笑いながら首元を指さす。
「あ……」
何とか視界に入ったそこには綺麗なキスマークが一つ。なるほど、しばらく消えそうにないな、これは。
「またねー。変態さん」
投げキッスを一つ残して、彼女は走り出す。
「変人だ」
誰も居なくなった門に向かって、小さく呟く。
今度あったら訂正してやる。そう心に誓って、僕は東へ向かって歩き始めた。
いかがでしたか?
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