朝、部屋のドアをたたく音で目を覚ました。カーテンから差し込む光の角度で、朝だと認識できた。フローリングにへばりついた顔をあげて、毛布をどかす。ベッドの上はゲームのパッケージやらカップ麺やらが一年ほど前から占領していたので、寝るときは床の上だった。もうとっくに肌に慣れてしまった冷たい床の感触を確かめながら、時間を確認するため、パソコンの前まで這う。電源を消さずに寝てしまっていたので、今でも煌々と画面に美少女ゲームが展開されている。時間を確認。中途半端な時間に起こされた怒りから、軽く舌打ち。
そこへ、さっきよりも強く、ドアをたたく音。
「っせーんだよ、ババア!」
 一瞬、ノックが鳴りやむ。が、
「何をしている。さっさと起きんか、祐!」
「せ、先輩!?」
 ドアの向こうにいるのは、どうやら先輩の声真似をした母上らしかった。
「似過ぎだ! 今すぐ止めろ!」
「違う!」
すぐさま入る、否定の声。
「私だ! 声を聞けばわかるだろう。学園に行くぞ、さっさと支度しろ!」
「ちょちょ、ちょっと待ってください! 本当に先輩なんですか?」
「いつまで寝ぼけているんだ、祐。入るぞ」
 先輩の声が、少し苛立ち気味になる。あわてて僕は、ドアのかぎを閉めた。ガチャガチャと、何かに引っ掛かったようにドアノブが動く。
「……? どうした、扉が開かないぞ」
「え、ええ。実は昨日から壊れちゃってて、開かないんですよ。だから今日のところはもう……」
 とっとと、帰ってください。
「な、なに? それは大変だ! こうなったら、破壊してでも……」
「へ? ……し、しまった、落ち着いてください、先輩! 嘘ですよ、嘘」
「嘘、だと? まさかお前、昨日じゃなくて、もっと前から閉じ込められていたのか!」
 いや、まあ、閉じこもってはいますけどね。
「鍵ですよ、鍵。壊れてません」
「そ、そうか。それは良かった。だが祐、おまえ、私が嘘を嫌っているのを知っててやったのか?」
焦りから安堵へ、そして再び怒気を増していく先輩の口調。
「ち、違います、そういうつもりで云ったんじゃないんですよ! とにかく今は部屋に入らないでください」
 完全にそういうつもりだった。まあ、それはいいとして。
「とにかく、今日のところはもう帰ってください」
「いや、私は学園に行く」
「どっちでも良いです。ここから立ち去ってください」
 はあ、とドアの向こうでため息が聞こえた。
「いいか祐。私はお前の死んだおじいさんから、立派になるよう面倒を見てくれと云われているんだ。それがなんだ、この体たらくは。朝に弱いというだけで授業をさぼろうとするなんて。いいから扉を開けろ」
 もちろんドアを開ける気はなかったし、朝に弱いわけでもないし、そもそも僕のじいさんは二人とも生きていて、先輩もまた僕の妄想の産物でしかなかった。
「ここから出るかどうかは、僕が決めることです」
「強情な奴だな」
先輩が、腰に手を当ててドアをにらみつけているのが想像できた。
「私が扉の外からお前を説得している。それが理由にはならないのか?」
「僕に必要なのは理由じゃありません」
「じゃあなにが必要なんだ?」
「別に、何も」
「ほう」
先輩の口調が変わる。
「ではなんだ、もうゲームなんて要らないと。かわいい女の子たちなんて、もう見たくもないと。ネットで動画を物色する生活なんて、もうやめると。そういうことだな?」
「う……せ、先輩が帰ってくれたら、考えないこともないですよ」
「そうか……残念だな。学園に来れば、かわいい女の子なんて腐り果てるほどいるぞ。先生たちもロリロリしているぞ。そもそも、私もかわいいぞ」
「あ……ぐ、う嘘だ、そんなの! 現実の女なんて、みんな屑に決まってる! ちっ、ちくしょう、あの女裏切りやがって。気があるものと思って告白してみたら、あっさり振りやがった! ……へへ、まあ最後は腹いせに粉々にしてやったがな」
僕は部屋の片隅を一瞥する。
「祐、気持ちはわかるが、ディスクは割るな。それよりも、早くここから出たらどうなんだ。おまえも本当は、いい加減うんざりしているんだろう?」
「う、うるさい! 僕の妄想のでしかないくせに知ったような口をききやがって。所詮はそこから話しかけることくらいしかできないくせに……」
「そうだな。私にはこれくらいしかできない。だからまあ、少し話そうじゃないか、祐」
ドア越しに、先輩が腰をおろしたのがわかった。僕はどうしていいかわからず、その場に突っ立ったまま。
「そういえば祐。昨今の美少女ゲームとやらには、当然、生きる希望や活力を与えるものも多くあるのだろう。だが今の祐をみていると、わたしには滑稽に思えてならないのだが……」
「滑稽とまで云われた! くそぉ、こうなったらもう、飛び下りて死んでやる!」
僕は部屋の奥にある窓を目指した。
「ま、待て! おちつけ祐、ここは一階だ!」
「な……うう、満足に死ぬことすらできないなんて……」
「飛び下りるくらいしか死ぬ方法が思いつかない祐をみていると、わたしまで悲しくなってくるが……。だが、大丈夫だよ、祐。人が死ぬ理由なんて、大抵しょうもないことばかりなんだから」
先輩が、急に穿った事を云い始める。
「そうだ。みんなちゃんと生きているようで、その実かなり適当なんだ。今急いで死ななくても、そのうちあっけなく死ぬ。だいたい、正面からのこのこやってきたキノコだか亀だかにぶつかって死ぬのと、車にぶつかって死ぬのと、どう違う? 屋上から飛び降りるのと、リセットボタンを押すのと、一体どう違う? 私はね、祐。人生もまた、ゲームみたいなものだと思うよ」
 その通りだと思った。部屋の中だろうが学校だろうが、どこにいようとどこに生きようと、痛いものは痛いし、楽しいものは楽しいし、悲しいし、面白い。だから僕はずっと、この部屋にいる。
「違うぞ、祐。おまえは、死んではいないが生きてもいない。皆のいる日常とは、世界とは、人間によってつくられているんだ。物質的な意味ではない。もっとこう……何と云ったら良いか。人間によって、満たされているといってもいい。人々の意識によって、保たれているんだ」
「……」
「人と人とのつながり。支え合う距離。そういったものに満たされている部分が、世界なんだ。しかも、それぞれの集まりによって、助け合いながらも役割が違う。こう考えると、人間とは、実に細胞的だと思わないか。人間を形作る、細胞だ」
そんなことはもう、十分わかっていた。ただ、分からないふりをしていただけだった。
「私はただの妄想に過ぎないが、それでも、こうやって互いに意識を向けること、疎通することは細胞同士のつながりだ。そこに、人間としての世界が生まれる。細胞同士でなくてもいい。何かに対するものの考え方、共通の理念もまた、私たちの居場所をつくる」
僕は、明かりもない部屋の中、ドアの前に座り、バッテリーが切れかけて明滅するパソコンを眺めた。
「だが祐、おまえは違う。おまえを認識しているのは、おまえだけだ。この六畳半の洋室にしか、おまえは生きていない。除外された細胞は、もはや、細胞とは云わないんだ。おまえも知っている通りな」
不自然なまでにやさしい先輩の口調が、気持ち悪かった。
「そうだ。おまえは知っている。だから私がここにいるんだ。だからもう一度、滑稽な質問をしよう、祐。私が、扉の外からお前を説得している。それが理由にはならないのか」
「祐、祐、うるさいな。大体、僕の名前は祐じゃあないし、理由なんて必要ない」
何度となく繰り返した、同じ問答。
「……わかった。じゃあ、こうしよう。ひとつゲームをしないか、祐。おまえの好きな、ゲームだ」
 子供をあやすような声で。先輩はそう云った。
「ゲーム?」
「そう。おまえをここから出せば私の勝ち。出なければおまえの勝ちだ。簡単だろう?」
「別に、良いですけど」
「よし」
 外で、すす、と微かに先輩の動く音がした。
「この部屋から出てください! お願いします!」
何となく、ドアの向こうで土下座している気がした。
「……」
「くっ、だめか……もういい、分かった。大人らしく、理知的かつ穏便にこの問題を解決してやる」
と、今度は立ち上がる気配。
「良いだろう。私の本領を見せてやろう」
だが、それ以降何も聞こえてこなくなった。
一分。
二分。
帰ったのかなと思っていると、指先に妙な感触がした。ぬるっとしている。床に手を這わす。何か、べっとりとしていて……それにこの臭い……。
「手首を切った。助けてくれないと死ぬ」
「子供か!」
勢いよく、扉を開けた。そこには誰もいなかった。後ろから、声。
「私の勝ちだな」
パソコンの中の、先輩が云った気がした。





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