『だれかの落とし物展』
ラムダ行進曲
不意に、夕刻を知らせるチャイムの音が鳴り響いた。力強く、ゆるやかに。物憂さを含んだ音色は、あたり一帯にゆっくりと浸み込んでいくようだった。
俺は大きく伸びをして、古ぼけたパイプ椅子から立ち上がった。遠く高層ビルの群れの間に埋もれていく太陽が、死に際の悪あがきのようにコンクリートを灼いていた。
夏の夕方の鞍引公園は行き交うひとも多い。バスケットボールを手に駆けていく子ども、買い物袋を下げた婦人。ここ最近では色とりどりのウェアを着てジョギングするひとも増えたようだ。
湖北台、鞍引地区。高層ビル群をはるか遠くに望む鞍引公園は、昔ながらの平屋が居並ぶ静かな住宅街の中にある。ジョギングコースが備えられた公園の隣には、石造りのアーチが目を引く美術館がどっしりと構えている。なんとなくそちらに目をやると、そろそろ閉館の時刻なのか、人々がぞろぞろと列をなしてアーチをくぐって出てくるところだった。
俺は鞍引美術館からジョギングコースに目を戻す。と、路肩に置いた看板の前でひとりの女性が立ち止まっていた。この公園ではあまり見かけない、スーツをぴしりと着込んだ女性だ。
女性はもう一度看板に目を落とすと、こちらに声をかけてきた。
「あの。まだ、やっていますか?」
乾いた声だった。
「ん、ああ……。見ていくかい?」
スーツ姿の彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「あの、ここは何をしているところなんですか?」
展示品の前で所在無げに立つ彼女が、こちらを見て言った。
「見ての通り、美術館さ。……いや、美術展、といった方がいいかな」
「美術展、ですか」
彼女は目をしばたたかせた。
「でも、美術館は向こうですよね。何か、企画ものの一部なんですか?」
彼女は鞍引美術館を指差して言った。石造りのアーチから吐き出される人々の列はすでに途絶えている。
「ああ、あれとこことは全く関係ねえんだ。ここの美術展は俺が好きで勝手に開いてるんだよ」
彼女は納得がいったという風に一つ頷くと、展示品の並べられた小さな机と向かい合った。
お世辞にも充実しているとは言えない展示品のいくつかを、彼女は子細に見てまわった。ともすればガラクタにしか見えないようなものも、まるで顕微鏡のレンズでも覗き見るように近く、水平線の島でも眺めるように遠く。
「あんた、こういうのに興味があるのか?」
筋肉の緩め方を忘れたかのような表情をそのままに展示品に見入る彼女に興味を覚えて、こちらから水を向けてみた。彼女は視線を斜め上にさまよわせ、考え込むようなポーズをとった。
「そうですね、特別興味があるわけではないです。……ただ」
「ただ?」
「こんな大きな公園の隅っこの方で、美術展をやってるなんて思わなかったもので」
今度は俺が納得する番だった。ああ、と言葉がもれる。
「何せ老いぼれが趣味程度でやってることだからなあ。展示品も少しだけだし、お客もほとんど来ねえ。最後に来た客の顔も覚えてねえくらいだ」
そこでいったん言葉を切って、公園内を通る道に目を向ける。部活帰りと思しき中学生が二人、こちらには目もくれずに行き過ぎていった。
「では、この展示品も全部館長さんが?」
「館長さんなんてよしてくれよ。それで、ええと、展示品か。そいつらは俺が作ったもんじゃないんだ。名もないだれかの落とし物だよ」
彼女は小首を傾げ、一段と難しい顔になった。
「……というと?」
「名前も知らない『だれか』がここへ来て、そいつらを置いていくんだ。いや、落としていく、と言った方がいいかな。まあとにかく、そうやってここに残されたものを俺が勝手に展示品にしてるってわけさね」
展示品の方に歩み寄り、その手前の紙でできた粗末なプレートを持ち上げる。そこには、小さく数字が書かれているだけだった。
「これ、題名がないだろ。なんでかわかるか?」
彼女は黙って首を横に振った。
「ここの展示品は全部『だれか』のものだからだよ。他人様のものに名前なんてつけられっこねえ。だろ?」
「ううん、ではこの数字は?」
「『だれか』がそれを置いていった日付さ。何もないってのも少しさびしい気がしてな」
あらためて展示品を見渡す。二十にも満たないそれらは、つい最近になってここに並んだものも、何年も前からずっと置いてあるものも、そこにあるのが当然だと言わんばかりに、静かに机に坐していた。
「……これ」
彼女が口を開いた。目線の先には、トンボを模したプラスチック製の虫眼鏡が置いてあった。片面を赤、もう片面を緑に塗られた鮮やかなものだ。
「気になったら取ってみても構わんよ。大事に扱ってくれさえすれば」
彼女はおずおずと虫眼鏡に手を伸ばす。眼鏡のものよりも小さいレンズを抱いたトンボを、彼女は何度も手の中でひっくり返した。
「私、小さい頃に、この虫眼鏡持ってました」
変に据わった目で、彼女はそうつぶやいた。
「そうかい。それで、今はどこに?」
彼女はゆるゆるとかぶりを振った。短く切り揃えられた髪が、白い首のまわりをすべった。
「わかりません。しばらく見ていないから……。館長さん、これを落としていったひとの話、していただけますか?」
「ああ、いいさ。ま、立ち話もいいが……座ったらどうだい」
彼女の視線に気おされつつも、パイプ椅子をすすめる。彼女は初めためらいを見せていたが、結局「すみません」と言って腰かけた。
彼女が椅子に落ち着くのを待ってから、俺は話し始めた。
その虫眼鏡がここに展示されたのは十年も前の話だということ。虫眼鏡の『落とし主』は小学生くらいの男の子だったこと。落とし主の男の子は昆虫が大好きで、近々大きな顕微鏡を買ってもらえると喜んでいたこと。
俺が一つ一つ糸をたぐるように話すのを、彼女は黙って、目を閉じて聞いていた。トンボを模した虫眼鏡について脈絡なく、思い出すままに話し終えた頃には、辺りはすでに薄暗くなっていた。
「まあ、俺が覚えているのはこれぐらいだな」
話が終わっても目を開けようとしない彼女が少し心配になって、俺は少し声を大きくした。彼女は体を強張らせて目を開けると、辺りの暗さに少し驚いたようだった。小さく息を吐いて、パイプ椅子から立ち上がる。
「……随分詳しく、覚えてらっしゃるんですね」
「まあ、なあ。他にするようなこともなし」
彼女は虫眼鏡を机に戻すと、他の展示品をちらりと一瞥し、それから自分の腕時計に目をやった。
「また、来てもいいですか」
感情を入れ忘れたかのような、変に押さえつけたような声で彼女は言った。俺は一瞬言葉に詰まったが、幸い素直な言葉を選ぶことができた。
「もちろんさ。うちはいつでも開いてるから、また気が向いたときに寄っていきな」
彼女は無言で会釈をすると、そのまま背を向けて去っていった。ハイヒールの靴で、歩きづらそうにしながら。
それから、スーツ姿の彼女は何度も俺の美術展にやってきた。時刻はたいがい夕方で、どこかの学校からチャイムが流れる頃だった。
彼女は毎回展示品の一つを手に取って、それについて俺は覚えている限りのことを話した。飾り気のない銀色の手鏡。クレヨンで描かれた父の日の絵。レンズが二〇〇二にデザインされた、プラスチック製の眼鏡。今日彼女が手に取ったのは、奇妙に捻じ曲げられた、二つのDVDだった。
「よく覚えているよ。そのDVDが『落とされた』のは、一年前の秋だった。学生服を着た男の子がやって来て、鞄からそれを取り出して、『落として』いったんだ。
俺は気になってその子に訊いた。なぜ、それを落としていくのか、とな。するとその子は初めてDVDに気付いたようで、困ったような、ばつの悪そうな顔で言ったのさ。
学校の展覧会に出品したんだが、期間が終わって返された。このまま持って帰っても親にゴミ扱いされるだけだと。それが忍びなくて、ここに『落として』いこうとしたんだと」
私は彼女の持つ、奇妙にねじれた二つの物体に視線を移す。私が初めに目にした時のような輝きはすでに失われ、曇りガラスのような鈍い光を放っていた。それを落としていった少年の困り顔が、すぐ目の前に浮かぶようだった。
「最近は時代の流れが速くていけねえ。ビルはあっという間に建っちまうし、この公園の横にもたいそうな美術館ができた。ここの奴らは自分が落とし物をしていることにも気づかねえで、前だけ向いて走っていくのさ」
そこで言葉を切り、公園の中に目を向ける。いつもと変わらず、サングラスをかけて風を切って走っていくランナーの姿があった。その眼には、こちらを振り返ろうという余裕はないのだろう。
彼女は改めて手の中のオブジェに目を落とす。小さなつぶやきが、聞こえた気がした。
「……振り返らず前だけ向いて、か」
◇
私は館長さんからDVDの話を聞いた何日か後に、またあの「美術展」を訪れた。しかし、何かがいつもと違うことに、すぐ気が付いた。
いつも公園のジョギングコースまで出てきて、難しい顔で立ってい
る、館長さんの姿がなかったのだ。私は幾分早足で道路わきの木立の中に入り、そして、館長さんがこと切れているのを見つけた。
周りにはいつも通り展示品が並べられた小さな机、ブルーシートで覆われた粗末な家、館長さんの座っているパイプ椅子と、もう一脚のパイプ椅子。館長さんは、パイプ椅子に腰かけて、まさに眠っているようだった。口許が幸せそうにゆるんでいることだけを除いては。
私は不思議なほど冷静に、館長さんを見つめていた。きっとこの人は、こうなることが薄々わかっていたんじゃないか、と。
美術館なんて最初から存在していなかったことを、私は知っていた。でも、それは館長さんもわかっていたのかもしれない。だから、美術館、と言いかけて、美術展と言い直したのだ。美術展には、壁も、屋根も、入り口も必要ない。だから館長さんは、この薄暗い木立の中に並べた『落とし物』を、美術展の展示品として扱っていたのだ。
私はハイヒールが食い込む地面にしゃがみこみ、館長さんに向けて手を合わせた。館長さんの言葉がよみがえる。そう、きっとここの人々は前だけ向いて走っているから、わからなかったのだ。館長さんは、人々の落とし物に気付いてほしかっただけだというのに。
鞄から携帯電話を取り出して、番号を探す。相手は町の役場、勤務先のデスクだ。伝えるべき言葉は決まっていた。
公園で不審な行動が目撃されていた浮浪者は、亡くなっていました。電話のコール音に、夕刻を告げるチャイムの音が重なる。道路の方に目を向ければ、ランナーも、子どもも、主婦も、皆前を向いて進み続けている。その眼が木立のこちら側に向けられることは、きっとこの先もないのだろう。