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雨が降って
                                                                                    三ツ島 有

 何かが腐っているような匂い。
 狭く入り組んだ路地には食べかけのピザ、タンボール、吐しゃ物まであらゆる汚物が散乱している。私は落ちている物に滑って転ばないよう慎重に、細い路地を駆けていく。永遠に続くように思われた暴力を包丁という凶器と殺意という狂気で止めてから、部屋を出て行くあてもなく走っているが、これからどうすれば良いのかいくら考えても分らない。先程から雨も降っていて血と痣でぼろぼろの自分の体が悲鳴をあげている。
「うわあ!」
 息が苦しくて喉がヒュゥと不吉な音をたて始めた頃、目の前のマンホールを右足で踏んだ瞬間、バランスを崩して見事に転んだ。前のめりに転び、骨の浮き出た棒みたいな両足の膝は皮がすりむけ肉が見えていた。戸籍上父親と呼ばれる男をこの手で刺してから今まで、止まることなく動いていた体を転んだ状態のままで静止させる。
「……」
 色々なことがありすぎて思考は完全に塞き止められている。ただ降り続く雨が肌を伝って口の中に入ってくる。
「油の……味」
 記憶の海に油が漂い混じっていく。味覚から脳へ。あの瞬間が戻ってくる。

 男の顔は十年間見てきた中で一番醜いものだった。憎悪とも歓喜とも呼べる表情をした男は私を殴り続けていた。何もない四畳半のぼろアパートの中央でうずくまったまま動かなくなった私をそれでも足で蹴り続ける。動け動けと叫ぶ男に私は返事をする力も無かった。
“三途の川”というのがあるとすれば今なら見える気がする。
 痛みが客観的に感じられるようになってきてぼんやりとそんなことを考えていた時、全身に何かが降りかかってきた。視線を上げるとライターを持った男が立っていた。

 その後、私はどこにそんな力が余っていたのか玄関の近くまで震える足で走って行った。落ちていた包丁を手に取り、男へ向き直る。おそらく初めての抵抗。最後に見た男の顔はやはり醜く歪んだ、世界で一番汚いものだった。


「……あいつはもう死んだんだ。死んだんだ……」
 何度も呟いては口に入ってくる油混じりの雨を吐き出す。遠くでパトカーのサイレンが響く。降りやまぬ雨は体の熱を吸い取っていってしまう。うつ伏せのまま路地の隅へと視線を移す。卵の中身らしきものがべっとりとはり付き、裂けた首から綿がはみ出ている汚れた灰色のぬいぐるみのうさぎと目が合った。
「はは。仲間だね」
 私にはそのうさぎが今まで見たものの中で一番素敵に思えた。


「君話せるかい?」
 おじさんの声がした。気がついたら毛布に包まれて病院のベッドに寝かされていたのだ。体中が包帯だらけで腕には点滴の針が刺さっている。
「おじさん誰?」
「警察だよ」
「ふうん」
 私は体を駆け抜けていく電撃を感じつつ上半身をゆっくり起こす。ベッドの枕の横には優しいピンク色の、首にリボンを付けたふわふわのぬいぐるみうさぎがいて、こちらを見つめている。うさぎを見つめたままの私におじさんが怪訝な顔をして声をかけてくる。
「君、名前は?」
 私は真っ黒な瞳に病室の蛍光灯の光を灯したうさぎから目を離さずに答えた。
「うさぎ」



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