ともしびの取引

呑奈明

「火を分けてくれない」

声変わり前の少年のような、軽やかなテノールだった。

しけた街のしけた酒屋。薄暗い店内、隅のテーブルに座って、いつものように琥珀色の蒸留酒を煽っていた時だった。

首をねじって振り向くと、そいつと目が合った。カーキ色のコートと首元に巻いたマフラーは風除けなのだろう。地味ないでたちの中で、赤褐色の髪だけが妙に目を引く。

口に咥えた葉巻を見て、発言の意図を理解した。

「構わんよ」

出来上がりかけで上機嫌だった私は承諾する。

「ありがとう」

そいつは一言礼を述べるとこちらにゆっくり歩いてきたので、私はベルトに留めた金属製のケースからマッチを一本取り出し、燐のついた先端を机に滑らせた。ヂッとくすぶった音がして、棒の先に小さな火玉が灯る。

「ほらよ」

「ん」

すると、そいつは葉巻を咥えたまま少し屈んで、私が差し出した火玉に葉巻の先端を重ねた。お蔭で私はそいつの顔をより至近距離で拝むことになった。

象牙のような白い皮膚、少し低めの鼻は先端がほんのりと桃色。髪と同じ色の睫毛に守られて、オパールの目がマッチの橙色と混ざり、薄暗くきらめいていた。

まだ若そうだが、年齢がよめない。いや、というよりこいつは男なのか。そう思ってしまうくらい整った、中性的な顔立ちをしていた。

葉巻に火が付くとそいつは何事もなさそうに体をおこし、その時ようやく葉巻から口を離した。人差し指と中指で葉巻を持ち、ふう、と美味そうに煙を吐き出す。

私がじっと凝視しているのに気付いたらしい、そいつは視線だけをこちらに向けた。座っている私を、立ったままのそいつが見下ろす形になる。

「なに?」

「いや、何でもない……あんた、旅芸人か何かか」

そう問うと、紅い睫毛がぱちりと、一度瞬いた。

「そう見える?」

質問を質問で返された。なんだこいつ。少しからかわれているような気がしてむっとしたが、よくよく見れば旅芸人なら楽器のひとつでも背負っているはずだ。では何なのだろう。少なくとも軍人とか百姓の類ではないだろう、この細い体で。

ひとり考え込んでいると、そいつはぽつりと言った。

「しいて言うなら、商人かな」

「商人?」

「しいて言うなら、だよ。旅芸人かと聞かれたのは初めてだけど……そうか、それもありかなあ。でも彼らのように人を楽しませて、幸せにするのが仕事ではないし……

今度は当事者であるはずのそいつが腕組みをして考え込み始めた。ひとりおいて行かれた私は、ちびちびグラスを傾けながら待つほか無かった。

「んー、でもまあ、商人だよ」

……そうかい」

ますます分からない。そもそもはっきり商人ですと言えないっていっ

たい何なんだ。こいつの妙なペースに巻き込まれて、私は妙に体がだるくなるのを感じた。少し、飲み過ぎたかもしれない。

げんなりした顔の私を見て、そいつは思い出したように告げた。

「それでだね、さっきの火の見返りをさせてほしい」

「見返り?」

「火をもらったからには代わりの物を差し上げねば。何か欲しい物はないかな。物でも、酒でも、金でも、」

形あるものなら大体どうにかできるよ、とそいつはにこりと微笑んだ。咥えた葉巻の先が、ひときわ強く橙を放った。

火ぐらいタダでくれてやる、と言ったが、そういうわけにはいかないだって自分は商人だからとよく分からない理由で突っぱねられた。

「何かこう……ないの?腹いっぱい食べたいとか、大金持ちになりたい、とか」

「特に欲しい物はないし、酒もこうして毎日飲めるし、別に金は稼げるしな」

「欲のない人だなあ」

そいつは少し拗ねた表情でこぼした。今更ながら変なのに絡まれてしまった、私もため息をつく。体のだるさは悪化する一方だった。心なしか寒気すら感じる。

とにかくこの場をさっさと引き払って、自宅のベッドでくつろぎたかった。それで、深く考えずに吐き捨てた。

「私はこうやって、ここで長生きできればいいんだ」

その瞬間、そいつが少し驚いたような顔をした。しかしすぐにそれは残念そうなもの変化した。何故か悔しそうに葉巻を見つめ、そのままテーブルに突っ伏す。

「そうか……

そいつが妙に落ち込んでいるのを見て、少し罪悪感が湧いた私はあわててフォローにまわる。……嗚呼、眩暈もしてきた。

「いや、別にお前が胡散臭いなんて思っちゃあいない。ただ、本当に欲しい物が無いだけだ」

……うん」

そいつは私のほうをちらりと見た。葉巻を咥え直して深く吸い込んだあと、再び俯いた。赤褐色の髪もしょんぼりと下を向いた。

私の寒気はピークに達さんばかりだった。頭もガンガンする。腕を持ち上げるのがつらい。なんだか周囲が暗い。

本当にこれは悪酔いのせいなのだろうか。そう思い始めた時だった。

そいつはおもむろにテーブルに白い手を付くと、急にこちらに顔を寄せてきた。

目の前に、紅色と象牙と、そしてオパール。

「じゃあ、返すよ。惜しいけど」

「え」

唇に何か触れる感覚と共に、目の前が真っ暗になった。

閉店間際の酒屋で、私はテーブルに突っ伏して寝ていたところを店主に起こされた。体調はすっかり良くなっていて、あれほどきつかった寒気もまったく感じなかった。

いつのまにかあいつはいなくなっていた。

店主に赤髪の奴がいなかったかと聞くと、訝しげな顔でそんな奴は見ていないと返されてしまった。それどころが、あんたずっと一人で何に話しかけてたんだと聞かれた。

それからというもの、私は病を患ったことが無い。馬車に引かれかけた事もあったが、無傷で済んだ。

あの商人を名乗る奴が何者だったのかは結局分からなかった。ただ、あの時何か要求していたら、今私はどうなっていたのだろうか。