明日、帰るから
大町星雨
「理菜、パパからお電話来たよ」
 私が声をかけると、ソファでテレビを見ていた理菜が、ソファの背をよじ登って越えてきた。私から受話器を受け取る。二つに結んであげた髪が赤い頬の横でゆれる。五つになったばかりの娘は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「パパ、りなの おたんじょうびには かえってくるって いったじゃん。もう はちにちも たっちゃったよ。りな、ちゃんと おようふく よういして もらったんだよ」
 理菜の言う通り、理菜はパパが帰ってくるのを待って、ここ数日ずっと、よそゆきの紫のワンピースを抱えている。
 私が娘の横にしゃがみこむと、受話器の向こうで夫の笑う声がした。
『ごめんな。約束守れなくて。これから飛行機に乗るから、明日の夜遅くには帰るよ』
「ほんと?ぜったいだよ、りなの おしゃしん とってね!」
 ぱっと顔を輝かせた理菜につられて、私も笑顔がこぼれた。
「じゃあ、ママにもおしゃべりさせてね」
 そう言って受話器を返してもらうと、私は理菜に会話が聞こえないように立ち上がった。理菜に背を向けると、顔から笑みが消え失せた。
「ニュースでずっと戦場の話をやってたわ。あなたのいる地区も巻き込まれてるって」
 受話器からは、数秒間何も聞こえなかった。
『大丈夫だ。あの後だいぶましな地域まで移動したんだ。それに、戦場でシャッターを押すのが俺の仕事なんだから。それにもうすぐ帰るよ』
 私は思わず涙をこぼしそうになって、ぐっと唇をかんでこらえた。
「もうすぐって言ってもう半月も経つのよ。……早く帰ってきてよ」
 最後の言葉は少しかすれた。
『あと三十分で国外に出る飛行機が出るんだ。明日、必ず帰る』
 それじゃ、もう乗るから、と言って電話が切れた。黙って受話器を戻す。
「ママ、どうしたの?」
 気がつくと、足元から心配そうに理菜が見上げていた。私は慌てて笑顔を作る。
「ううん、ちょっと眠くなってきちゃただけ。理菜もワンピース置いて寝ようか」
「うん!」
元気良く頷く理菜の手を引いて、私は電話から離れた。

 日本人の乗った飛行機が撃ち落とされたという見出しが、翌日の新聞の一面を占領していた。
 夫でなければいい、という期待は、やがてかかってきた不法の電話で崩れ去った。
 離陸直後に、仕掛けられていた爆弾とミサイルで墜落、炎上。遺体の判別すら難しい状況だという。
「ママ、パパ きょう かえってくるんでしょ?どうして おちこんでるの?」
 幼稚園から帰ってきた理菜を、私は思わず抱きしめていた。
「パパは、明日帰ってくるって言ったでしょ。だから、明日よ」
「ママ?でも」
「明日よ。明日……」
 私はそれだけくり返して、理菜をきつく抱きしめていた。
 明日はそれが今になった時、「明日」ではなくなっている。
 あの人が帰ってくるのは、絶対に来ない「明日」なのだ。



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