空が泣いた日

桜木有須

涙が人間の目からこぼれ落ちるなんてことが、昔は本当に起きていた。昔といってもほんの二百年前まで涙は人の目から落ちるもので、つまり涙をもたなくなった人間の歴史は、涙をこぼした人間の百分の一にすら満たない。

人の目から涙が落ちることを、昔は「泣く」という言葉で表したらしい。だから、僕の伯父は雨が降ることを「空が泣く」という。

伯父は雨が降ると必ずその話をする。「雨が降る」を初めて「空が泣く」と言い換えた日の話を。

「泣く」という言葉は、本当は涙に対してしか使わない。けれど涙も雨も同じ液体で、ある日雨が降るその光景が、資料で読んだことしかない「泣く」という姿に似ていると思った。傘を外して上を向くと、薄暗い空から絶え間なく落ちてくる雨が顔に当たった。そのうちのいくつかは目に入り、微かな痛みと共に目尻から零れ落ちていった。その時に「ああこれが泣くということか」と思った。

もう何度聞いたかわからないが、その大体はこんなところである。

今日も朝から雨で、昼ごろにやって来た伯父は、居間のソファに座って同じ話をした。父は仕事に出かけ、母は伯父と僕にコーヒーを用意すると買い物に出ていくので、伯父の話を聞くのはいつも僕一人なのだ。もっとも、伯父が「泣く」ということを雨によって体験したのはもう四十年以上も前のことなので、僕が生まれる前にその話を聞いていたのは当然別の誰かであったのだが。

……同じ、言葉の研究者には馬鹿にされる表現だがね」

コーヒーを飲みながら伯父は笑った。

「けれどこの言葉を生かしてやるには、これしかないと思ったのさ。使われなくなった言葉は忘れられて、死んでしまうからね」

話が終わると雨が止む前に伯父は帰っていく。来る時に使っていた傘を差す素振りはないので、つまりはそういうことなのだろう。

僕は涙を見たことがない。もっと言うなら、液体の涙を。今僕らが知ることができるのは、文章の中にある涙と、鉱物化した涙だ。博物館に展示されているそれは、涙が滲みこんだ土壌と土地の気候による天文学的確率がどうとかいう説明文と共に保管されている、世界で最後の涙、なのだそうだ。伯父はそれを酷く嫌っている。それは資料を読むうちにある一本の詩を見つけたからなのだそうで、初めて家にやってきた日に一度だけ、その一説を見せてくれた。

『なみだはにんげんのつくることのできる一番ちいさな海です』

その時伯父は、ぼろぼろの本をそっとしまいながら、「涙は海なんだ。海は、液体でなくちゃいけない」と、酷く悲しそうな顔をした。そして僕の名を読んで、「知ってるかい、空は、泣くんだよ」と言ったのだ。

僕はそれを思い出すたび、泣いてみたいと思う。

朝からずっと聞こえていた雨の音が、だんだんと弱まってきた。じきに晴れるのだろう。

海と、それから「泣く」という言葉をひたすら愛する伯父は、いつも傘を差さずに帰っていく。僕は泣いてみたいと願いながらも、

まだ雨に濡れたことがない。

コーヒーカップを片付けようと立ち上がったとき、玄関の方で母の帰ってくる音がした。



『なみだはにんげんのつくることのできる一番ちいさな海です』

寺山修司「海の詩」より抜粋




 


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