蠅と悪魔

稲嶺 雷華


「俺じゃない! 悪魔が!俺の中にいる悪魔がさせたんだ!

「悪魔?そんなものがいるわけないだろう! こいつはお前が殺したんだ!

 

 水鏡に映る部屋の中には男が三人。一人は頭部から血を流して床に伏している。すでに命はないようであるから、一人と数えるのもおかしいかもしれない。ひどくとりみだした二人目は片手に血にまみれた鈍器を握っていた。そして三人目はそれをあわてたように責め立てている。

さて水鏡のこちら側には脈打つ壁に囲まれた狭い部屋。その真ん中でじっと水鏡の中に移る三人を見つめる異形。

「悪魔がいるわけない……か。嘘だろう。私はここにいるのに」

 頭のてっぺんにねじれた角を二本はやしている。隆起した筋肉は世界にある動物のどんなものよりも醜く恐ろしい。体中にあいた口と無作為に散らばった目玉がてんでバラバラにギョロギョロと、ぐちゃぐちゃと動き、まるで流動体のようだ。その中の一つの口がぐにゃりと歪んで笑い声のような不快な音を発した。

 腹部にある虫のような顔の、かみ合わせの悪い乱杭歯の隙間から、黄色く濁ったヨダレが垂れる。出刃包丁どころか、アーミーナイフすら可愛く見える鋭く尖った四本の鉤爪を開いてソレが息を吹きかけると、息に呼び出されたかのように無から生まれた一匹の蠅が飛び立った。

 

 音を立てて蠅が飛んでいる。汲み取り式の便所にいるような奴らと少しも変わらない配色で、パーツで、大きさ。捕まえるには素早すぎるが、しかし気になるほどには遅く、うざい。

 そういえば蠅たたきが常備されている家は最近減ったらしい。と言っても蠅自体が減ったわけではない。蠅が巧妙になったのだ。悪魔の王の手によって放たれた蠅は在来の物に良く似た別種である。より賢く、より危険だ。在来種を駆逐し、人間に気が付かれないうちに世界中に生息地を広げた。

 

 ふっと悪魔の蠅が部屋の壁に止まる。人が通りかかる。辺りに注意を払わず、携帯の画面を凝視したままの、格好の獲物。複眼はそれをとらえてねらいを定め、後を追う。見つかれば追い払われる。しかし見つからなければそのまま露出した肌に接触する。歯をもって噛みつく。

 露出した首の後ろなどは特に狙い目だ。無防備に神経が出ている。脳髄を少しだけいじくって精神を悪魔の意図する構造に改造するのもたやすい。

 

 蠅ごときの持つ力はたしかに微々たるものだが、それでも一時の気の迷いを起こすには十分である。

 良心の呵責を感じなかった一瞬。奪い、殴り、殺すことに罪悪感を抱かない。全て人間の首の後ろや足首、露出した肌にとまった悪魔の使いである蠅の仕業。

自然界の蠅は人間の知らないうちに淘汰され、代わりに蠅の王と呼ばれる悪魔の貴族の、その眷属の蝿たちが世界にのさばっている。

そう、今日も明日もテレビの伝えるニュースに、絶えることの無い人間の悪意が移されるのは人間の所為じゃない。悪魔の使いである蠅の仕業。

 

 水鏡に映るのは人間の世界にはびこるありとあらゆる悪行の数々。舌なめずりをして『悪魔の王と呼ばれしもの』が覗く。強盗万引き詐欺強姦。多いのはやはり人殺し。刺殺縊殺殴殺撲殺鏖殺挌殺虐殺 自殺。その生み出す憎しみが悪魔をより強くするのだ。そうしてまた良心の呵責は薄れ、悪魔の所業が世に満ち満ちる。この清潔すぎて悪魔の住めない人間の世界が汚らしく、悪魔が住まうに丁度いい位になる日は近い。

 いつか世界を埋め尽くした死体に集る蠅の群れが、平伏して悪魔の降臨を祝うまで、水鏡は同じ景色を映し続けるのだ。

                了

 



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