昼休み、扇に呼ばれて廊下の片隅につれて行かれた。てっきり関係解消の宣言をされるとばかり思っていたが、違った。

「今日の放課後。告白した教室で五時きっかりに、関係を解消します。それまでは、恋人関係を続けると言うことにして下さい」
「ああ、わかった」
 おかしな提案だとは思ったが、まぁ平均人生という僕にはなぜ目指すかわからない道を歩む扇のことだ。僕はその疑問を棚上げして頷いた。それだけ告げて教室に帰ろうとする扇。僕は、その背中に一声かけた。
「扇、今日朝のニュースの特番見たか?」
「見てません」
 人目を気にしてか、手短に答えて扇は帰っていった。僕の放課後の予定が決定した。

 放課後、約束より三十分早い四時半。しかし、季節の違いからか空の色はあの時に似た橙色だった。僕はなんだかその光景が懐かしくて、窓から夕日を見ていた。あと三十分で終わる、青春の一ページを少しだけ名残惜しみながら。
この感傷は、結果的に大正解だった。窓から半身を乗り出して見上げた空。その視界を遮る屋上のフェンスのこっち側に、人影が見えたからだ。
 僕はそれが誰かを頭が断定する前に、動いていた。屋上まで、駆け上がる。
 あの日と同じ、橙色に染まった空と長い影。そして少し違う澄んだ冷たい空気で肺を満たして、僕は彼女に言った。
「何してるんだ! 扇睦美!」
 屋上のフェンスの向こうにいる扇は、驚いたような表情でこちらに振り向いた。三ヶ月という長くも短くもない付き合いながら、彼女の驚いた表情は初めて見るものだと気がついた。しかしそれも、すぐに良く知る柔和な表情へと戻る。
「どうしてここがわかったんですか、拓也さん」
「教室から空見上げてたら見えたんだ! お前、そんなところでどういうつもりだ!」
 そう尋ねながら、僕はすでに答えに至っていた。彼女がこの後、なんと言うのか。
「学生が自殺を試みたことがある割合は二十%を超えているそうですよ」
 予想通りの答えだった。やはりこいつは、朝のニュース番組を見ていたのだ。
「おかしいだろ! 一番割合が高かったのは自殺を考えたことがあるだったろ!」
「ああ、拓也さんもご覧になっていたのですね。問題ありません、二十パーセント以上なら誤差の範囲内です」
 自分の死活問題を、彼女は誤差で語った。やはり、彼女は特別だ。僕は、そんなふうには考えられない。
「そんなに平均が大事なのかよ! おかしいだろ、そんなので自分の命を投げ出すなんて!」
「もし、そうすることで特別になれるなら。拓也さんだって、迷わずそうするんじゃありませんか?」
 フェンスの向こう側で、彼女は穏やかにそう言った。僕は、言葉に詰まる。確かに、それで大多数の人の記憶に刻まれることができるのなら、僕はそうするかもしれない。
 でも、同時に目の前の人間を――仮にも恋人を放ってくわけにもいかない。僕は、普通だからだ。
「私、自分が異常であることはあるていど自覚しておりました。でも、自殺なんてことはただの一度だって考えたことはありませんでした。欠片もです。それって、異常だったのですね」
「いや、それが正しいんだ」
「倫理的な正しさを言っているのではありません。統計的な、平均的な正しさを説いているのです。拓也さん、自殺しようと考えたことは今までなかったですか?」
 ない、とは言えなかった。これまでの短い人生だからといって、つらいことがなかったわけではない。実行力が伴わなくとも、少しだけ弱音とともに妄想を広げたことはある。それを実行できたら、どれだけ楽で特別だろうと。
「そして、それは今もです。自分の自殺する様、首吊り飛び降り飛び込み……何をどれだけ想定しても、私にはそれを行う理由も感情も理解できなかったのです。ならばもう、実行するより仕方ないではありませんか」
 私は平均ですもの。
 そう言って、笑った。
「そんなの、おかしいだろ! 変だ!」
「ええ、だから変でなくなるために自殺するのです」
「どうしてだよ! それ、普通じゃない!」
 それは、何気なく放った一言だった。しかし、扇に変化が起きた。握り締めるフェンスが少しゆがみ、こちらを睨みつけるように彼女は怒声を響かせた。
「普通、とはなんですか! それは、どうしたらわかるのですか! 何をもって、何を普通とするのですか!」
 そんな表情も声も初めてで、僕は息をするのさえ驚いて止めてしまった。
「私は、普通と違います。異常で、異端なのです。私の普通は、普通ではありません。幼稚園の頃、空を紫のクレヨンで塗りつぶしました。先生方の奇異と別のなにかを見るような目は、今でも忘れられません。小学校の頃、私は既に中学の勉学をほとんど理解していました。周囲の妬みと差別の目がこびりついて離れません。私の普通は普通じゃないんです!」
 それは、傍から見ればこまごまとしたものだった。人からみれば羨望に近いものを感じるかもしれない。しかし、それは幼い少女に確実にトラウマを植え付けた。
「だから、私は自分の課しました。『己は平均たれ』と! 平均であるうちは、奇異の目で見られない。限りなく、普通の中に溶け込める! 私に普通がなくても、その基準値の中で安穏としていれば普通と見なされるんです!」
 それは、彼女が誰かに言いたくて、そして誰にも言えない鎖の形をした傷口だった。
 どうして、たったそれだけのことが彼女をここまで傷つけたのかはわからない。わからないからこそ、彼女は特別製なのだろう。
 でも、だからこそ彼女は人の中にいたかったのだ。
特別ではなく、平均でもなく。
 彼女は、溢れる普通の平凡でいたかったのだ。平均はその手段で、彼女唯一の願いに至る方程式だったのだ。
だから、彼女は揺るがない。決して向こうからこちらへは歩み寄らない。
どうすればいい。
 普通の僕に、特別な彼女のことなどわからない。その僕に、説得ができるか。彼女をこの現実に連れ戻すことは可能なのか?
 このようなこと、物語でいえば主人公の役目だ。決して、脇役の――ましてモブの役目ではない。つまり、僕の役目じゃない。
 何より……そんなふうに生きていくならば、ここで死んでしまったほうが楽じゃないのだろうかと僕の頭にそんな考えが一瞬通り抜けた。
「だから、私は行きます。これは、拓也さんへの最後のプレゼントでもあるんですよ?」
「どういう、ことだよ」
「先ほど、クラスの何人かに私たちの関係を仄めかしておきました。自殺をした少女の恋人だった男性――これは、充分に特別でしょう?」
 確かに、特別だ。僕は、彼女に言った。僕が、彼女に言ったのだ。特別になれるなら、方法なんて問わないと。
 だから、これはお互いの道を照らし合わせた最高の結果。本来交わらない僕たちのベクトルの到達点。
 これが、正解だ。
「それでは、短い間ではお世話になりました。意外に楽しくて、すこし驚きました。
 ありがとうございました。きっと、これが私たちの正しい道です」
 そうして、彼女はフェンスから手を離し
「そうだね、きっと正しいんだ」
 僕は、その手を掴んだ。扇は、驚いているようだった。ただでさえ丸い目をまん丸にして、握られた手を見ている。
 僕は言った。
「僕は、特別でいたい。それは、今でも変わらない。変えられない」
 でも、代えることはできる。僕は、付け足した。
「僕は、普通に特別でいたいんだ!」
 相反する二つの言葉。僕はそれを繋げて、扇の手を握り締める。
「ふざけるな! 恋人を殺した男なんて不名誉な特別、俺はいらない! 俺が欲しいのはそういうのじゃない! 俺はもっと、普通に特別でいたいんだ!」
「意味が……わかりません」
「殺人者とか、革命家とか……誰かを傷つけた特別なんて、僕はいらない。そんな特別、押し付けられても迷惑だって言ってるんだ!」
「だって、拓也さんは言ったではありませんか! 特別になれるなら手段なんて!」
「そんな前のこと知るか!」
 自分で言っていて、なんていい加減なんだろう。でも、それでいい。特別とかなんて、正直今はどうでもいい。目の前の人を殺してしまうならば、主義も主張も今はいらない。情けなくていい、いい加減でいい。
 だって、目の前の人がいれば。俺は、その特別でいられるのだから。
 今になって気づく自分の愚鈍さに、そしてまだ間に合うという思いに、強く力を込める。
「誰かにとって特別だとか、少し絵がうまいとか話がおもしろいとか、それだけでいいんだ僕は! 友達が多いでもいい! 僕は、そういう普通の特別でいいんだ!
 僕は、普通でいい。普通で、いいんだ」
 それは、言わばこれまでの自己の否定。これまでの自分の思想への氾濫だ。
 扇は、崩れた。膝から崩れて、フェンスに持たれかかる。
 屋上には、かすかな嗚咽だけが漏れた。
「でも、私は。特別は、嫌です」
「なら俺が普通を教えてやる。平均をとるより、よっぽど簡単だ」
「私には、普通なんてわかりません」
「そんなもん、僕にもわからない。それだって、俺と一緒に普通してればいつの間にか身につく」
「無理です」
「テストで百点取るより簡単だ。俺は、お前が認めた平均の――平凡のヘキスパートなんだろ。講師がよけりゃ、駄目な生徒でも東大に入れるさ」
「無理です」
「わからない。それとも、お前は死にたいのか」
「わかりません」
「死にたくないのか」
「わかりません」
「生きたくないのか」
「わかりません」
「つらくないのか」
「わかりません」
「僕と一緒にはいられないのか」
 わかりません、と彼女は続けなかった。
 でも、と続けた。
「私と拓也さんは、あと十五分で関係解消です。一緒にいることは、もうありません」
 なんだ、そんなこと。
 僕は、言った。
「じゃあ、延長だ。いや、違う。俺が今、告白しよう。
 睦美、平均人生なんてものは考えないで、普通に付き合おう」
 これが、今の僕の精一杯だ。これ以上の言葉も気持ちも、今の僕にはもっていない。プロポーズも、愛の言葉も無理だ。僕は普通だから。普通だから、彼女に言ってあげられる。
 あとは、彼女次第。
 彼女がその平均人生を、妥協できるかどうか。
 この三ヶ月が、無駄ではなかったか。そこが、分かれ道だ。
「……五歳」
「え?」
 彼女は、呟いた。
「ここで私が生き残ったら、日本人女性の平均寿命の八十五歳まで生き残らなければなりません。貴方は、その責任が取れますか?」
 驚いた。それは、プロポーズってことだろうか。ちょっと待ってくれ。普通の僕に、そこまでの覚悟はない。
 僕は、しどろもどろになりながら答えた。
「……か、考えておく」
 僕の精一杯の答えに彼女は
「なんですかそれ」
 微笑んだ。いや、大声で笑った。繋いだ手はそのままに、見つかることもいとわずに、彼女は笑った。溜め込んだものを、発散するように。
「じゃあ、私も考えておきます」
「え? 何を」
「相沢さんと付き合うかどうかです。平均人生を抜きにすれば、貴方と付き合うメリットが私には驚くほどありません」
 だから、と彼女は顔を上げた。いつもの帰り道で見た、楽しそうな表情を浮かべて。
「まだ、貴方は普通の特別でもありません。だから、普通であるうちに私に教えてください。普通の生き方を、普通の世界を、普通の考え方を。
 そしていつか私も、普通の特別にしてください」
 そう言う彼女はやっぱりずれていて、普通とは遠い特別だけれど。きっと変わっていけると、変えていけると思うには充分だった。
 彼女は、最後にこう締めくくった。
「今日から私の座右の銘は『己は普通たれ』です。
 相沢さん、私に普通を教えてください」
 フェンス越しに、僕は頷いた。
 学校のチャイムは、低い音で五時を知らせた。







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