注射より怖いモノ

                 下柳五郎

 

 明日は予防注射の日。それを思うと、朝から憂鬱だ。でも同級生たちは皆いつも通りの顔をしている。憂鬱にならないクラスメートたちはおかしいと野々村朝子は思う。

 朝子は注射が嫌いだ。理由はシンプルに痛いからだ。できることならしたくない。しかし今回の予防注射は部活の大会に出るためにどうしてもしなくてはならないそれを思うとお腹が痛くなる。ストレスだ。ストレスによるものだ。

 友人たちはそんな朝子を見てニヤニヤしている。爆笑するのでもなく失笑するのでもなく、微笑んでいる。高校生になっても注射でお腹が痛くなるなんていいなあと、朝子をほほえましく思っている。すこしむかつく。見ている方にとってはほほえましい喜劇だろうが、こちらにとってはシリアスな悲劇なのだ。

 予防注射と言うシステムそのものが気に入らない。なるかどうかわからない病気を防ぐためにするというシステムは不健全だ。理屈は分かるが、納得できない。生理的に無理だ。未来なんてどうなるか分からないのだから、予防したってどうにもならないだろう。朝子はそんな八つ当たりをしながら予防注射の前日を過ごしていた。

 時間はゆっくりゆっくりと流れていく。亀の歩みのように緩慢に。予防注射へのカウントダウンみたいだ。常に注射の針をイメージしてしまう。あの痛さを想像してしまう。社会の授業で経済の仕組みを習っている時も、国語で古文の文法を習っている時も、体育でバレーをしている時も、朝子は注射のことを考えていた。授業の内容が頭に入ってこないのはいつものことだけど、注射のことなんて考えたくもないのに。最悪だ。

「注射の何が嫌なの?」とお昼ご飯を食べている時に、図書委員に聞かれた。

 図書委員はあだ名だ。髪は茶髪のショートカット。スカートの長さは校則で決められた長さギリギリ。一般に思われている図書委員のイメージとはかけはなれているけれど、図書委員は誰よりも真面目な図書委員だ。図書館で司書の手伝いをしている彼女を見たことがない生徒は少ない。

「痛いのが嫌なの」と朝子は答えた。我ながら子供っぽい理由だとは思うが、しょうがない。嫌なモノは嫌なのだから。

「本当に?」と言って、からあげを図書委員は口に放り込んだ。

「本当だよ」

 今日の卵焼きはちょっとしょっぱい気がする。

「だって部活で擦り傷とかたくさん作ってるじゃん、野々村」

 それを言われると少し困る。朝子は女子ソフトボール部に入っている。確かに擦り傷とかはしょっちゅうだ。お風呂に入るとよくしみて痛い。でもあの痛みと注射の痛みは違う気がするのだ。でもどう違うかが上手く説明できそうになくて、ただ「うう」とだけ呻いた。

「ううじゃなくってさ」

「うう」とごまかすために朝子は言った。

 卵焼きを食べ終わった。やっぱりちょっとしょっぱい。

「あのねえ野々村。それじゃああんたが、一番注射をしてて痛いと思う時っていつ?」と図書委員が言った。

 一番痛いと思う時? ふむ。何時だろう。やっぱり針が体に入ってくるときだろうか。それとも体に薬が注入されるときか。少し考える。ううむ。

 朝子が考えていると、

「注射の針を刺される直前じゃないの?」と図書委員が言った。

「注射の針を刺す直前って痛くもなんともないじゃん」

「いやあ。注射の針を刺す緊張感みたいのが一番高まるのが直前でしょ。そういう時、腕がかゆくなったりしない?」

 あー。言われてみれば。そうかもしれない。

 でも痛くはないけれど。ううん。そんな風に悩む朝子の顔を見てブロッコリーを食べ終わった図書委員が言った。

「まあ痛くはないかもしれないけどさ。その緊張が痛さを増しているっていうのはあり得る話だと思うよ。その時に何か別のことを考えれば、痛くなくなるかもね」

 わかったような、わからないような。プチトマトの酸味は理解の助けにはならない。

「別のことって何?」

「それは自分で考えなさい」と言って図書委員は本で朝子の頭をポンとたたいた。図書委員が本を大事にしなくていいのかよ。

 

午後の授業は図書委員が言った別のことばかり考えていた。

 別のこと。別のことねえ。何だろう。好きなモノ。かつ丼。アイスクリーム。ソフトボール。新しい服。好きな歌手の新曲。好きな漫画家の新作。これらを考えても注射の恐怖に負けてしまう気がする。家族のこととか友達のこととかも同じだ。ペットの犬も一緒だろう。

 ふうむ。注射針の恐怖は大きい。

 考えを変えてみる。注射の恐怖よりもっと怖くて嫌なモノを考えてみたらどうだろうか。痛みはなくなるだろう。

 一メートルぐらいのナメクジ。熊に食われたシカの死体。悪口しか言わない人。エゴイスティックでヒステリーな教師。ピエロ。ちんげんさい。虎。テストの成績が悪かった時の母親。セロリ。

 やっぱり注射より怖くて嫌なモノなんてない。

 また図書委員に相談しようか。朝子はそう思ったけれど、また分かったようなわからないようなことを言われる気がした。それに相談してばっかりなのは気が引ける。

 

 放課後。部活の練習。朝子はまだ注射のことについて考えていた。

「そっち行ったぞ! 朝子」という先輩の声でようやく体が動き出した。ボールを追っかけて何とかキャッチする。注射のことで頭がぼんやりしていた。素早く三塁に送球。

 いけないなあ。どうも注射のことで頭がぼんやりしてしまっている。来週は大会だというのに。これで怪我をしたらどうしようもない。体がほぐれたら、ちょっと早めに抜けさせてもらおう。

 練習を抜ける許可は監督からすぐもらえた。やっぱり挙動がいつもと違ったらしい。先輩たちからも「大丈夫?」という声をもらった。心配されている。もうしわけない。自分のせいで人に迷惑が掛かっている。やっぱりどうにかしなくちゃいけない。

 でもどうやって?

 答えが出ない。こういうのはもっと私より頭がいい人が答えを出すべき問題なのに。何で私が考えなくちゃいけないんだろう。

 朝子の愚痴は誰も聞いてくれない。

 とりあえず荷物を取りに教室に帰ることにした。

 教室には関口くんがいた。机に座って、ぼーっと黒板を見ている。

 関口喜太郎は朝子と図書委員のクラスメートだ。若白髪で目が細くてなんか落ち着いた雰囲気なのであだ名はご隠居。朝子はそんなに話したことがない。図書委員と関口君は幼馴染らしいけど、そこら辺の関係はよくは知らない。

 図書委員が関口は頭がいいよと言っていたのを思い出す。

 注射のことを一瞬相談してみようかなと思った。思い直して止める。大して親しくもない男子に自分の悩みを相談するなんてどうかしている。ましてや注射が怖いなんて言ったら笑われるだろう。荷物を取って帰ろう。そう思ったら関口君に声をかけられた。

「野々村さん。何してるの?」

「え、あ、荷物を取りに来たの」

 見れば分かることを何で私は話しているんだろう。

「そういう関口君は何をしているの?」

「黒板見てたんだよ」

 見れば分かるけど、意味がよく分からない。帰ろう。

「じゃ、そういうことで」と言い、何がどういう事なのか一切わからないけれど、荷物を取って教室を出ようとした。

「ちょっと待って」と関口君に声をかけられた。

 ちょっと怖いなあ。黒板見てたしなあ。まあ忙しくはないから話を聞いてもいいけれど。どうしよう。後ろを振り向くと関口君が缶のお茶二本とおまんじゅうを用意していた。

 どこからだしたんだどこから。

 なんだか訳が分からなくなって、椅子に座った。

「相談があるんだよ」と関口君は言った。

 あなたが、私に。何で? 頭の中に疑問符がたくさん湧いた。朝子と関口君は親しいわけじゃない。共通の知人は図書委員一人だけだろう。こうやって話すのも初めてなのに。とさっきまで相談しようかなと自分を棚においた。

「ちょうどよかったんだ」

「どういうこと?」

「野々村さん。たまに髪形をツインテールにするだろ?」

 話の脈絡がわからない。確かにたまにツインテールにはするが。

 とりあえず頷いた。そしておまんじゅうに目がいった。

「あの、このおまんじゅう食べていい?」と朝子は聞いた。

「え、ああ、いいよ。俺ん家が作ってるんだ」と関口君は言った。

 そうなんだ。何回か見たことあるやつだ。多分地元の大手。関口君ってやっぱりお坊ちゃんなのかしら。そんなことを思いながらおまんじゅうをパクつく。

「えっと、じゃあ、話し続けさせてもらうけど」

関口君はコホンと一回咳払いしてまた話し出した。

「野々村さんは気をつけた方がいい。新聞部の部長に君は狙われている」

 思考が一時停止。私が。狙われている。新聞部の部長に? 何で? 会ったこともないのに。 

「ほぼ間違いない」そう言ってから関口君はお茶を飲んだ。

 おまんじゅうを急いで食べ終え、お茶を流し込んでから急いで聞いた。

「何で、新聞部の部長に私が狙われるの? 私その人知らないよ」

「あっちもつい最近まで君のことを知らなかったけど、今は知っている。君に蔑んでほしいと思っている。あと睨みつけてもらいたいってさ」

 意味が分からない。分かりたくもない。

「どういうこと?」

「たまにそういう変な願望を持っちゃう人なんだよ」

「はあ」

「ツインテールの子に踏まれたいって思っちゃったんだ。つい最近」

「何それ」

 気持ちわる。

「うん。まあ危害は加えないと思うけど、君を拉致監禁ぐらいは平気でするかもしれない」

 いやいや。十分危害でているよ。関口君。ご隠居!

「どういう人なのその人?」

 なんとか力を振り絞って聞いた。

「黒髪で肌が白くて、赤いメガネつけてる女子」

 女子なのかよ。待てよ。黒髪で、肌が白くて、赤いメガネ?

「もしかして、あの凄い美人な人?」

 見覚えがあった。すごい外人みたいに綺麗な人だ。

「そう」

「あの人、そっち系の人なの?」

 まあ高校生だし居てもおかしくないけど。

「どっちもいけるんだよ」

そう言って関口君はため息をついた。

 私は呼吸ができない。

「何であの人が私なんかを」

「たまたま部長がこの前の地区予選の映像を見て、それに野々村さんが映っててててさ。それで興味を持ったらしくて」

「はあ」

 そう言えばあの時ツインテールにしてたけど、してたけどさ。えええ。

 何秒間かの沈黙。

「この話マジなの?」

「馬鹿らしいけど本当なんだよ」

 ううん。ううん。納得できない。私の理解を超えている。朝子は机に突っ伏した。

「あー。ありがとう関口君教えてくれて」

「うん、まあ三日ぐらいすればおさまると思うから。それまでは窓とか玄関とかの取締り、あと夜道に気をつけて」

 その言葉怖すぎるよ。朝子は自分が寒さを感じていることに気づいた。

「じゃ、大会頑張ってくれ」と言って、関口君は教室を出て行った。

 朝子は携帯を出して、図書委員にメールを送った。一応関口君の話の真偽を確かめたかったからだ。すぐにメールが返ってきた。

 それ事実だわ。関口新聞部だし。私その人に狙われたことあるし。

 神よ。仏よ。

 生まれて初めて朝子は祈った。どうか助けてくださいと。

 その夜、朝子は震えながら子羊のように夜を過ごした。注射のことなんて頭から吹っ飛んだ。

 

 次の日の注射は全く痛くなかった。新聞部の部長のことを意識していたら、まったく痛みなんて感じなかった。ただ冷や汗をだらだら流していたので、医者に心配された。

 新聞部の部長の発作はそれから二日ほど続き、唐突に終わった。

 図書委員からそのメールが来たとき、朝子は心の底から安堵した。

 まさか大会が終わってから拉致されるなんてこの時は夢にも思っていなかったのだ。