休暇

               下柳 五郎

                                                  

食事を運んできたとき、旅館の人がこう言った。

「この地域では、オジョウをオジョウサマと言うんです」

「はあ、何でそう呼ぶんですか?」妻が聞いた。

「何でも、昔津波が来た時、オジョウサマが助けてくれたからだとか」

「へえ」

「まあ、それを食っとるわけですがね」

 へへへへ、と旅館の人は笑った。俺と妻は、はは、と愛想笑いをした。

旅館の人が行ってしまってから、

「サマ付けで呼ぶなんて変わっているね」と浴衣の妻が言った。

「そうだな」舌を口の中で動かしながら、俺は答えた。

 早くビールが飲みたかった。今週、仕事の修羅場がようやく終わったのだ。この一泊二日の小旅行は、本来の予定ではゴールデンウィーク中に行けるはずだったのに、延期に延期を重ねて、六月になってしまっただ。

 外はもう宵闇につつまれている。この港町に来るのに、車で半日かかった。仕事と運転の疲れを癒すにはビールしかなかった。だから早く飲みたかった。

 そう思って、なんだかあせっていたら、

「もう。ちーくん、ビールは逃げません」妻が笑って俺を叱った。

 お見通しである。

 よく冷えた瓶ビールをコップに注ぎ、妻と二人で乾杯をした。

 黄金色の液体が口と喉で弾けた。

「じゃあ、オジョウサマを食べましょうか」と俺が言い、

「食べましょう。食べましょう」と妻が言った。

オジョウの刺身はねっとりとした赤色だった。酢醤油をつけて口に運ぶと濃厚な味わいが舌に広がった。マグロの中トロにすこし似ている。脂と甘みのバランスがちょうどいい。美味い。ふっと舌で溶けるのだ。同僚の吉岡がここに来た方が良いと熱弁していた理由がわかったような気がした。

「おいしいね」と妻が言った。俺はうなずいた。

「スーパーのとはまた味が違うな」

「ぜんぜんこっちの方が良いよ。わかるでしょ?」

「…………いや、あんまり」どっちも美味い。

「え。…………ちーくん味オンチだなぁ。来た意味ないじゃん」

「すいません」

「お弁当とかも工夫してるんだけど、わたしの努力に気づいてないでしょ」口をとがらせて妻が言った。

「すいません」俺は頭を下げた。会社でも家でも頭を下げているなと思った。

旅館の人が、持ってきた卓を見た。

オジョウの天ぷら、茶わん蒸し、焼きイセエビ、オジョウと白身魚(俺には何の魚かわからなかった)の刺身。しゃぶしゃぶ、何かのあら汁、漬物、等々。色々盛りだくさんである。

唾液が口から出るのがわかった。

その後、俺と妻は、飲んでは食べ、食べては飲んで、喋っては食べた。

 満腹になって、俺は寝っころがった。

「牛になるよ。牛に」妻が言った。

「なってもいい」

「え、ちーくんが牛になったら、わたしはどうすればいいの?」

「お前もなればいいじゃないか」

「わたしは、人間でいたいなぁ」

「そうか。それはしょうがないなぁ」

「その代わり、私はちーくんが牛になっていく過程、人間をやめていく過程をしっかり記録するよ。それが妻の務めだからね」

「その記録、どうするんだよ」

「NASAに売る」

 こんなような馬鹿な事をだらだらと話した。記憶にも残っていないような、馬鹿な話だ。何の意味もないし、価値もないが、こういうものの堆積が人生なのかもしれない。そんな馬鹿な思考が、一瞬頭をよぎって、すぐに忘れた。

「わたし、お風呂入ってくる」妻が立ち上がって言った。

 この旅館には、露天風呂もあった。

「おういってこい」

「ちーくんも一緒に入る?」妻が笑って言った。

「ここ、混浴じゃないだろ」

「えー、つまんないの」

 そう言って、妻は肩甲骨まで伸ばした髪を揺らしながら、部屋を出た。

 俺は、ぼんやりと窓辺で月を見た。

 すこし欠けた満月だった。ビールと同じように黄金色に輝いていた。

 月にはビールがたくさんあるから、NASAはそれを独占しようとして、宇宙開発技術をあまり公にしないんじゃないか、という陰謀を考え、その陰謀を打破する解決策を今度同僚の吉岡と一緒に話しあおうと思っていたら、妻が出てきた。

 風呂上がりの妻は綺麗だった。いつもより綺麗だった。まあ恥ずかしいから口には出さないが、綺麗だった。

 その夜は、妻と二人で、子供のように寝た。

 いい夜だった。

 

 次の日、朝食を食べた後、笑顔で旅館の人に見送られながら、宿を出た。

 その後、ぼんやりと海を見たり、電波塔に行ったりした。海では妻は泳ぐ気満々だったが、まだ海水が冷たかったので、海辺を散歩して、貝を拾う事にした。貝拾いは思っていたより、面白かった。

 実際、俺は泳ぎが下手なので、泳ぐことにならなくてよかった。泳いだら、また妻に馬鹿にされただろう。

 電波塔ではお土産を買った。塔のミニチュアと電波塔まんじゅうである。

塔のミニチュアなんか誰も欲しくないだろうと妻に言ったら、自分たちの旅の記念として買うからいいの。これがあれば思い出せるでしょと返され、ぐうの音も出なかった。妻は時々もっともなことを言う。

 昼は、洒落ていて、量も多いレストランでカレーを食べた。オジョウを使ったカレーだった。美味かった。メニューには、オジョウサマのカレーと書いてあった。旅館の人が言っていたことは間違っていなかった。

 オジョウの養殖場に着いたのは、午後二時ちょっと過ぎだった。本当は、天然のオジョウ猟が見たかったのだが、あいにく今は時期ではなかった。オジョウ猟は、秋のオジョウの産卵の時に行われる。

 駐車場に車を止めて、おりると、潮のねっとりとした濃厚な匂いがした。

 駐車場には、もう一台車が止まっていて、白のバンだった。どこにでもあるような車だったが、俺はそれをその車が装っているような気がして、なんだか不気味に感じた。

 養殖場は白い三階建ての建物で、テレビドラマに出てくるような最先端技術の研究所を連想させた。養殖場はなんとなく家庭的で、すこし潰れたような建物だと想像していたので、意外だった。

 妻が弾むような足取りで、入り口に近づいて行った。俺はその後を追った。

 入り口に入ったら、いきなり、

「出てってくれ」という大声が聞えた。

 俺と妻が言われたのかと一瞬思ったが、その声を発した人物は別の人に向かって言っているようだとわかった。

 入り口のロビーで二人の人物が口論をしていた。

 眼鏡をかけたスーツの男性とヨーロッパ系の青年だ。眼鏡の男性の後ろには警備員が立っていた。妻が目を丸くさせた。

「帰ってくれ」

「お願いです。話を聞いてください。彼女たちは、食べていいようなものじゃないんです」

「ふざけるな。みんな食べているじゃないか」

「彼女たちを食べないでください」

「あれにはオスとメスがちゃんとあるんだ。何も知らない癖に自分の言いたいことばかりしゃべりやがって。早く連れてってくれ」

 眼鏡の男性は相当怒っているようだった。

 青年は、騒ぎながら、警備員にひっぱられていった。

 眼鏡の男性は、ぜえはあと息を整えた後、俺らを見て、すこし失敗したなという感情を顔に浮かばせた。会社でよく見るからわかる。眼鏡の男性は、顔を無表情にして、ロビーを去った。

「何だったんだろうね、あれ」と妻が言った。

「クレーム処理だよ。たぶん」

「ふうん」

 クジラやマグロと同じように、オジョウの食用も欧州の動物愛護団体に批判されているというニュースを見たことがある。あのヨーロッパ系の青年もそういう類の人種だろう。迷惑をかけている訳ではないのだから、好きに食べさせてくれと俺は思うが、おせっかいな連中はそう思わないらしい。どちらにしろきっと何かの利権が絡んでいるに違いない。ああいうのは大体そういうものなのだ。

 受付に「見学の予約をした藤沢です」と告げてから、数分立って、黒光りする強面のおじさんがやって来た。スーツを着ているが、全く似合っていない。

いかにも海の男という風貌である。

「どうも。広報の矢代です」おじさんは言った。

「藤沢です」

「学校の先生と、教え子さんですか?」ニヤリと笑って、矢代さんは言った。

 妻が、やだもうと嬉しそうに言った。おべっかである。矢代さんのよく使う冗談なのだろう。

「本日は見学ですか?」

「はい」

「可愛い女性広報がいるんですが、あいにく今日は留守で。すいません」

 禿げ頭をなでながら、矢代さんは言った。親しみを持てる声である。良い広報なのだろう。

「はあ、残念です」と言ったら、妻にひっそり足を踏まれた。

 妻は、あとでおしおきだからねという顔をしていた。

 言わなきゃよかった。

 

 オジョウの水槽に案内される途中、矢代さんが説明してくれた。白い廊下を歩きながら俺と妻は説明を聞いた。

「オジョウサマは生物学的には、ニンギョに近いんです。まぁ下半身は魚じゃなくて二本足ですけど」と矢代さんが言った。

「絶滅危惧種のあのニンギョですか」妻が聞いた。

「そうです。学名ヤオビクニ・マフォーク。食べたら不死になるとか言われているアレです。現在はレッドリストに載っていますね」

 ニンギョは高校の時、水族館で見たことがある。つまらなそうに一人ぼっちで泳いでいたのを覚えている。上半身は確かに、美しい女性に見えたが、なんだか居づらくて、すぐ水槽の前を離れてしまった。

「あれって本当に食べたら不死になれるんですか?」

「なれませんよ。明治・大正にかけて不老不死の噂が原因で、乱獲されましたがね。実際に不老不死になった人は一人もいません。 そのニンギョ狩りの時期に、オジョウサマもニンギョに近いからと食べられましてね。そしたら」

「そしたら?」

「美味かったんです。ニンギョより。だから乱獲はされず養殖の研究が始まりました」

「明治から食べられたんですか? オジョウって」妻が驚いて聞いた。

「江戸時代は、気味悪がって食べられていなかった、ということになっているんですがね。けっこう食べていたという文献が残っているんです。かの家康公も食べたことがあったとか」笑って矢代さんが言った。どうも歴史好きらしい。

 青いドアに着いた。矢代さんが鍵束をとりだし、解錠して、ドアを開けた。

 そこに、オジョウが居た。

 ガラス越しに俺と妻はオジョウを見た。

 水槽はオジョウが生息する浅瀬が模されていた。オジョウたちは泥まみれだった。這っているからだろう。

「足の腱を切っているんです。ペットとして育てられているオジョウサマや野生のオジョウサマと養殖が一番違うのはここですかね」

「どうして切っているんですか?」と俺は聞いた。

「オジョウサマの足は骨が細くて、すぐに折れてしまうんです。転んだり、何かにぶつかったりするだけで。折れると肉の質が悪くなりますから」矢代さんはスラスラと語った。何百回も説明しているからか、その言葉に感情はない。

「それならいっそのこと、ということですか」

「そうです」

 オジョウに耳はない。耳の場所に穴が開いているだけだ。髪は硬質な何かで、人間の様に植物性ではない。一度生えたら、二度と生えてこないんです、と頭をなでながら矢代さんが言った。それに妻は爆笑して、俺は苦笑いした。

全長は大体百四十センチ。人間の成人女性の体形をしている。妻に、お前よりスタイルが良いなと言おうとしたが、考え直して止めた。

 泥だらけだが、オジョウは美しかった。輝くように笑っていた。

たまにペットの、服を着せられたオジョウを街中で見ることがあるが、それよりもずっと美しかった。養殖のオジョウがこんなに美しいのならば、天然のオジョウはどのぐらい美しいのだろう。

「オジョウサマの乳房ってオスとメス、両方にあるんですよね」妻が言った。

 唐突な言葉に、矢代さんは一瞬ぎょっとしたが、

「ああ、ありますね。体型も似ているからオスとメスを見分けるのが大変なんです。ひよこと同じぐらい大変ですね」

「ふうん。ねえ」と妻は俺を呼んだ。人前では、妻は俺をちーくんとは呼ばない。

「何?」

「わたしたち、オジョウサマじゃなくてよかったわね」

「そう、だな」

 妻はぼんやりとオジョウの水槽を眺めながら言った。どうしてそう思ったのかすこし聞きたかった。でもここでは聞けなかった。

「……藤沢さんは、どうしてこの町に?」矢代さんに聞かれた。

「同僚に勧められまして」吉岡が酒を飲むたびにここの話をしたからだ。それで来ざるをえなくなった。

「ああ、なるほど」

「……宿にオジョウサマのお刺身が出たんですけど、あれってもしかして」

 妻が失礼なことを聞いた。俺の背中に冷や汗が流れた。

「宿のは天然ですよ。養殖は天然よりおいしいと私どもは言っているんですが、旅館の人たちは聞いてくれなくてね。困ってしまいます。でも旬のオジョウサマが一番おいしいですね。やっぱり」矢代さんは笑いながら言った。よく笑う人だ。いい人で良かった。

「旬っていつですか?」俺は聞いた。

「秋ですね」

「やっぱり」そう言ったが、自分でも何がやっぱりなのかさっぱりわからなかった。

 一匹のオジョウが俺たちの方を向いた。子供のような瞳で、こちらを見た。

「こっちが見えてるんですか」俺は矢代さんに聞いた。

「ほとんど嗅覚に頼っているので、視力はありません」

 オジョウは、口を開けて、鳴いた。小さい歯があった。ガラスが防音なのだろうか。その声は聞こえなかった。ただ口の動きで「ぬい」「ぬい」と言ってることが分かった。

「何か伝えたいことがあるのかしら」と妻が言うと、

「犬や猫の鳴き声と同じですよ」矢代さんが悲しい瞳でこう言った。

「え」

「ニンギョは鳴きませんが、オジョウサマは鳴けます。身体上の仕組みの都合でね。でもだからといってコミュニケーションができるかといったらできやしないんです。イルカや猿の方がよっぽど物事がわかります。我々が、オジョウサマと意思疎通ができると思ってしまうのは、何か伝えたいことがあると考えてしまうのは、オジョウサマが人の形をしているからですよ」

「……人の形」

「意志疎通ができると思って、思い込んで、我々はずっと苦労してきました。鳴き声を分析し、解析し、挑戦したんです。それこそ江戸時代から。でも駄目です。何の成果も出やしない。『ぬい』はただの鳴き声なんです。それでもあきらめない人はいます。夢を見つづける人は」

 俺はロビーで眼鏡の男性と口論していたヨーロッパ系の青年を思い出した。彼はオジョウを食べてはいけないと言っていた。オジョウを『彼女』と呼んでいた。彼はオジョウを『人』だと思っているのだろうか。そして俺の傍らに立っている矢代さんも、もしかしたらかつてはそう思っていたかもしれない。

「でも駄目なんです。いいかげん不可能だって気づいていい頃なんです。私たちとオジョウサマは違うんです。ゼロから違うんですよ。それはどうにもならない、何をやっても飛び越えられない、どうしようもない断絶なんです。オジョウサマは人に似ていますが、それだけなんです。オジョウサマは人に似ていますが、人ではないんです」

 そう矢代さんは言った。ひきしぼるような、悲しい声だった。何かへ訴えかけるような声だった。

 俺と妻と矢代さんは、オジョウの水槽の前で、ぼんやりとオジョウを眺めた。

 オジョウは、泥にまみれていた。

 

 帰りの車中で、俺は妻に聞いた。妻は窓から橙色の夕焼けを見ていた。俺は気になっていたことを聞いた。

「なあ」

「何?」

「どうして、オジョウサマじゃなくてよかったなんて言ったんだ」

「……だって儚いじゃない」

「儚い、ねぇ」

「あそこのオジョウサマたちは綺麗で、無垢で、純粋で、何も知らなかった」

「いいことじゃないか」

「でも、それだけじゃあ駄目だと思うんだ」

「ふうん」俺にはよくわからなかった。

「だってそれだけだったら、わたしはちーくんに会えなかった」

「…………」

 妻の顔を見なくても、妻が笑っているのがわかった。自分の顔が赤くなっているのもわかった。

「恥ずかしいこと言うなよ」俺は言った。精いっぱいの抵抗である。

「女の子だからね。許されます」

「女の子って年か」

「…………ちーくん」

「何だよ」

「どこ、つねられたい?」

 妻がさっきとは違う笑顔であるのがわかった。背筋が冷たくなった。ハンドルを握る手が汗ばんだ。

 次のサービスエリアまで俺の命は持つだろうか。心配である。

 

 家に帰ってビールを飲んだら、妻はすぐに寝てしまった。疲れていたのだろう。俺も疲れていた。この缶ビールを飲み干したら寝よう。

 オジョウの幸せを考えようとしたが、やめた。答えのない問いを考えるほど、俺は暇じゃないし、無責任でも残酷でもない。

 最後の枝豆を口に放り込んで、ビールで流し込んだ。

 今夜は満月である。ベッドに入って、電気を消した。

 明日からまた仕事である。