物書きと批評家。

志乃山こう

じっと、パソコンの画面の中で点滅する黒いバーを見つめる。モニターの中に表現された白い紙の上で、延々と点滅を繰り返すそれは、先ほどから全く場所を変えていない。

いい加減、書き始めるか。

……うん」

一人で相槌をうって、僕はキーボードに指を置いた。

出だしは、少し考えてから、『絶望』と打った。

絶望、とでも表現しようか。その男は、マンションの自室で身動きをしないまま、壁に背を任せて座り込んでいた。目は中空を、まるで何かを凝視しているように、ひたと見つめて動かない。

部屋の中には濃く生臭い臭いが充満していた。だが、吐きそうになるほどの悪臭の中で、男は平然と座り込んでいた。

悪臭を放つ源は、彼の右隣に倒れていた。ごろりと転がる頭部を除き、もはやそれが人であったことが分からないほどに、胴体を開かれて薄桃色の臓物が赤い血と共に、それを中心に周囲を散らかしていた。程々に時間が経ったのか、表面は乾いて艶が消え赤黒くなっている。

男もまた、真っ赤であった。右手も左手もシャツもGパンも、彼の口でさえも、乾いた赤がこびりついていた。その姿は、まるで一つの作品を完成させた芸術家が、茫としている風でもあった。

十数時間ほど前、男は同じく自室で座り込んでいた。しかし、その時はまだ、男は頭を抱え込んで泣いていた。人生における一つの破局――だが男が壊れるには充分すぎた――を迎えていたのだ。

男はひとしきり泣いた後、次に見た誰かを殺そうと決意した。己が身に降りかかった破滅を、誰かにぶつけるのでなく、可視化して、表現すること。そうしてそれをじっくりと観察することで、もしかしたら、今の自分から解放される手だてが一つでも見つかると思ったのだった。

男はゆっくりと立ち上がり、キッチンにあった包丁を握り、玄関に行こうとした。

その時、男は玄関の開く音を聞いてしまった。そして、こちらに歩いてくる足音。ドアーが開けられ、入ってきたのは――男にとって最愛の女性だった。

男は持っていた包丁を離そうとした。しかし、何かが男に囁いた。「表現し得るだけの、最高のカタストロフィを表現できるのは、彼女を以て他は無い」と。

男は迷うことを自分で許さなかった。包丁を握り直し、こちらに心配そうな顔で歩いてきた彼女の腹部に深々と突き入れた。女性は苦しそうにうずくまろうとしたが、男は包丁を引き抜くために柄を両手で持って右足で女性を蹴飛ばしたので、床に音を立てて転がった。

それから男は女性に馬乗りになり、何度も包丁を突き立てた。女性が全く動かなくなるまで、それは続いた。途中で包丁の刃がかけ、切れ味が悪くなっても、刃の手前を押し当てて強く引き切った。

女性の動きを止めると、男は包丁を出鱈目に使って、解体を始めた。皮膚を裂き、筋をむしり取り、体内のありとあらゆる器官を夢中で引きちぎった。包丁が本当に使い物にならなくなると、今度は口を直接突っ込んで歯で噛みちぎった。

骨は、足と膝を使って乱暴に蹴り続けると、ミシミシと音がした後にボキリと折れた。男は自分のどこにそんな力があったのかという驚きを、興奮の内に密やかに感じた。

全てが終わり、彼は元のように壁に依りかかってずるずると腰を下ろした。そして、朝を迎えて現在に至る。

男は、ふと誰かの存在を感じて、部屋の扉の方を向いた。

そこには、もはや肉片と化してしまったはずの女性が立っていた。しかし、体のいたるところから臓器と血を垂れ流し、顔は両目がつぶれて赤黒い何かがこぼれ出ていた。

男は、女性の名を呼んだ。

「これから、どうすればいいと思う」

男が問いかけると、女性はゆっくりとずたずたの腕で、ベランダを指差した。男は、救われたような心持になった。心のどこかで予想していた最期を、彼女の腕は示したのだから。

男はふらふらと立ち上がると、足元に転がる惨状を気にせず、転ばないようにだけ気をつけながら、その中心に立った。足元から伝わってくる虚ろな柔らかく、時に固い湿った感触に、居ても立ってもいられず、彼は屈んで両手でそれを出来るだけ抱えた。ぼとぼとと多くが床に落ちてしまったが、拾うのは諦めた。女性の首も、床に放っておいた。

ベランダに出ると、初夏の心地よい風が男を迎えた。男の部屋は地上十階ほど。とても心地よい風が吹くのであった。

男は、後ろを振り向いて、未だ自分を見つめてくる女性に、微笑みを浮かべながら別れの言葉を告げた。

「それじゃ」

男はベランダによじ登り、目を閉じた。

そのまま、陽光が射す方向へ、力の限り跳躍した――

「いやー、救いようないね」

「うわっ!?」

突然耳の近くで声がして、僕はとっさに前にのめった。その拍子にキーボードに手を突いてしまい、画面に「;。9んshjzsERういhdfwじゃ」と意味不明な文字が表示された。

後ろを振り返り、僕は声の主をにらみつけた。

……勝手に見るなよ、母さん」

僕の背後で盗み見をしていた人物――母は、笑いながら、悪ぶれた様子を見せない。エプロンを着けたまま、ということは、たまたま僕が居たのを見つけて、後ろからこっそり覗き見していたのか。

「だって、リビングでパソコン叩いてたら、誰だって見たくなるでしょ」

……いつから見てたの?」

「ええーと、出だしを書き始めた時かな」

全部かよ。

驚くことに、母は僕の後ろで全てを見ていたらしかった。夢中になっていた僕も悪いが、見るなら本人の許可を得てからにしてほしい。

まあ、頼まれても見せるつもりはないけれど。

すると、母が当然のごとく「どっこらしょ」とその場に腰を下ろし始めた。このまま話をするつもりのようだ。

やってられない。僕はデータを保存すると、急いでアプリを閉じ、シャットダウンの準備をした。

だが、母は気にせず、僕に尋ねてきた。

「その小説だけどね、何で最後に男は飛び降りたの?」

……なんとなく」

「なんとなく?人ってそんな簡単に死ねるっけ?」

ああ、もう、うるさい。そんなのに理由なんて求めるな。

僕は半ばやけになって答えた。

「贖罪だよ、男にとっての。彼女を殺してしまったことの償い」

そういうと、母は口に指を当てて唸った。

「うーん……男が死んでも女は生き返らないのに、どうして死ぬことが償いになるの?」

「ああそうだね言い方が悪かったよ、死んだのは男の自己満足、これで良い?」

「うん、すっきりした。でも、そもそも男をそんなにするような破局って、一体何だったの?」

楽しそうに揚げ足を取ってくる母。こちらが怒りを抑えるのに神経をすり減らしているのも気付かず、答えを期待する目をしている。

調度その時パソコンが完全にシャットダウンし終わったので、僕は椅子から降りざまにさっさと答えた。

「知らない。そこまで考えてない。人生誰しも一度はあるんじゃないの」

が、予想に反して母は何も言わなかった。そのかわり、悲しそうな顔をして、「そう」とだけ呟いた。

僕は面喰らってつい立ち止まってしまった。

「な、なんだよ」

「いいえ……我が息子ながら、なんて適当なストーリー構成なんだろう、って思ったら悲しくなってきて……

「大きなお世話だよ!」

やはり母がまともなことをいうはずがなかった。

完全に頭にきて、踵を返してリビングのドアに向かう。と、その背中に、母が最期に一つだけアドバイスを投げかけた。

「デッドエンドはね、あまり使わない方が良いよ。書くのは楽だけど、実際に人の死を扱うってのは、とっても難しいから」

そのまま無視しようと思ったが、良い切り返しが思い浮かんだので、僕は振り返って母に言ってみた。

「じゃあ、母さんなら男を最後にどうする?」

母はノータイムで答えた。

「もちろん、自殺させるわよ」

「変わってないじゃん!」

すると、母は僕に向かって指を振った。

「ちっちっち、あなたと違って、男は自己満足で死ぬんじゃないの。人間が、人間たり得るための前提条件、つまり倫理を壊してしまったから、男は死ぬしか選択肢がないの。分かるかしら」

分からん。具体的に言ってもらわないと困る。

と、母は言いたいことを言い終えたのか、「じゃあね」といってキッチンのほうに行ってしまった。

僕は溜息を吐きつつ、リビングを出た。

ちなみに、その後自室に帰ってから、改めて自分の小説の痛さと、かつ母があの小説を全否定しなかったことがじわじわと理解できて、恥ずかしさと後悔にのた打ち回ることとなったことは内緒である。




 


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