サカサウツシノカゲ

師走ハツヒト


東に向いた窓が一つきりある薄暗い部屋に、その鏡台はありました。 窓から差し込んだ光が古い鏡台を照らし、そこだけは明るかったのですが、部屋の隅には影がわだかまっていました。
 僕の家系は、人には見えないこわいものを感じる力が強いらしく、ときどきそういう暗がりから体も腕さえもない手だけが鞠をつきながら唄う手鞠歌が聞こえたりしました。その部屋はなんとなく不気味でしたから、その鏡台ももっと明るい部屋に動かそうという話も何度か出たのですが、実際には動かされず放っておかれたままでした。動かしてもいつの間にかその部屋に戻ってしまうから、というのは、兄さまの冗談だったでしょうか。僕の知る限り、その鏡台は未だかつてその部屋を出た事がありませんでした。
 そんな部屋であっても、僕はよくそこで姉さまが化粧をするのを見ていました。姉さまは美しい人でしたが、白粉を塗り紅を引くと、より一層美しく見えました。清楚で奥ゆかしい姉さまの容貌が、頬紅を差して目許に線を入れると、すっと引き締まって華やかになるように、僕の目には映りました。そうやって蕾が花開くように変化していく様が、とても僕の興味を引きました。兄さまは化粧をしない姉さまの方が好きだそうですが、僕は化粧をする前の姉さまもした後の姉さまもどちらも大好きでした。

 姉さまが十九歳の時だったと思います。僕はまだその時十歳だったので、今となっては何故姉さまがその時化粧をしていたのか、どこに行く用事の為に化粧をしていたのかは覚えていませんが、その時の出来事ははっきりと覚えています。
 僕はいつもの通り、姉さまが化粧をするのを横で見ていました。姉さまは、化粧をする時僕が常に傍に来るので、少し恥ずかしそうにしていました。
 化粧品の香りが立ち込める部屋の、窓から差す昼下がりの下。そこにある円筒型の椅子に姉さまは座り、鏡に向き直って抽斗から手品のように化粧道具を次々に出しました。
 まず、化粧水と乳液をはたき込み、粉白粉を微妙な濃淡をつけながら重ね、刷毛で余分な粉を払い落します。次に、紅筆に取った口紅を唇の縁にすっと引き、その内側にむらなく塗り込みます。仕上げに眉墨で形よく眉を描き、こげ茶色の色鉛筆に似た物で目の縁をなぞり、爽やかな緑色の粉で瞼を彩ります。こうすると、上品に落ち着いた風だった姉さまの目が、はっきりと大きく見えるのです。僕はこれが不思議で、姉さまがそれをする度に魅入ってしまっていました。
 それが終わると姉さまは、鏡台に置いてあった大きめの手鏡を取り、鏡に背を向けました。最後に合わせ鏡を使って自分の後ろ側の髪が乱れていないか見るつもりなのです。注意深く少しの乱れを見つけた姉さまは、引き出しから櫛を取り出して髪を梳き始めました。
 その時です。僕は鏡台の鏡から音もなくずるりと黒い手が現れるのを見ました。声も出ない程驚いている僕の前で、その手は鏡台の前の椅子に座って手鏡を除きこんでいる姉さまの首にゆっくりと伸びました。僕は思わず叫びました。
「姉さま、後ろ!」
 いきなり僕が叫んだので、跳ねるように後ろを振り返った姉さまは、弾みで手鏡を鏡台にぶつけてしまいました。ぎちりと音がして、鏡に蜘蛛の巣のような罅が入りました。一瞬の内に、黒い手は消え失せました。
  その手から酷く禍々しい物を感じ取り、それに姉さまが殺されてしまうのではないかという恐怖に泣きだしそうな僕を、姉さまは抱きしめてくれました。姉さまは砕けてしまった鏡台に狼狽していましたが、それよりもとりあえず僕を宥め、僕に何が起こったかのかを訊こうとしてくれました。僕が黒い手の事を話すと、自分の手鏡の中に映った鏡にはその黒い手は見えなかったと言いながらも、僕の話を信じてくれました。
 きっとあの手は、姉さまが鏡から背を向ける機会を待っていたのです。そして姉さまが鏡に映っていながら鏡の方を向いていない時を狙って、首を絞めて殺そうとしたのです。あの時僕や他の誰かがそばにいなかったら、姉さまは気づかずに殺されてしまっていたかも知れません。そう思うと、恐ろしくてたまりませんでした。

その黒い手の話を母さまにした後に、母さまが教えてくれたのですが、姉さまが生まれる前、母さまのお腹には二人の赤ちゃんが宿っていたそうです。つまり、姉さまは元は双子だったのです。しかし姉さまでない方のもう一人は、お腹から出た時には既に死んでいました。母さまと父さまはその子を供養したが、血筋のせいか亡霊となって甦ってしまったのかもしれない、と母さまは言いました。このもう一人の姉さまの事は、僕も姉さまも、姉さまより年嵩の兄さまさえも知りませんでした。言われてみれば、その黒い手は姉さまと同じようにほっそりとした女の人の手だったように思います。
 僕達は、もう一人の姉さまの霊をもう一度丁寧に供養し、割れてしまった鏡台も同じく供養してもらって、新しい鏡台を買いました。新しい鏡台は、以前の部屋ではなくもっと明るい場所に置かれるようになりました。
 鏡は決して自分の姿を映しません。あれは左右があべこべになった、自分によく似てはいるけど違うものです。合わせ鏡にして初めて、自分の顔を他人が見るように見る事が出来るのです。自分と鏡の中の自分、それはまるで右手と左手のようなものです。また双子も、そのようなものなのかもしれません。もう一人の姉さまは、姉さまが自らを飾って生まれたままの顔を隠し、綺麗になるのが許せなかったのではないかと、今では思っています。

 あれから姉さまは時々、鏡の中をじっと覗き込むようになりました。まるで鏡の中に、自分の失くしてしまった半身を探すように。



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