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ペットボトルの夢

蔦谷征之丞

この街に降る雨はひどく強い酸性なので、特殊加工を施された傘を差さなければ外には出ることができない。

そう言いだしたのは誰だったのだろう。それを確かめたのは誰だったのだろう。いつだったのだろう。誰もが怯えた顔を傘の下に隠し込んで、いそいそと歩いていく街は、もう何百年も同じことをしていると言う。大昔の富と繁栄のツケが、空からひっきりなしに降っている。小学生のころから、歴史の教科書にはそう記され続けていた。

時には、やはり特殊加工されたカッパを被り、ささやかな雨粒の一つさえも恐ろしい毒薬である雨空の下、街の住民は誰とも視線を交わさずに歩いた。排水溝は酸に打ち勝つために仰々しいほど丈夫なものを作り、たまに酸に爛れた蛙がトラックにひかれて、道路に己の姿をべったりと版画のように残す。大雨が流れ込んだ川は唸り、濁った色の蛇になってどこかへ流れて消えていく。昔、氾濫した川に誤って落ちた人が、翌日中途半端に溶けた姿で川岸に転がっていたという事故があった。下半身が川に浸かっていたために、ひどく軽い死体になっていたという。

僕はそんなことを思い出しながら、川べりにいた。

「そんなに探したって、魚なんていないよ」

十分ごとに丁寧にそう叫んでやるのだが、川に入ってじゃぶじゃぶと水をさらう友人は聞く耳をもたない。

どこからもってきたのか、警察や研究機関が使うような特殊なカッパに特殊なゴーグル、マスク、手袋をきっちりとつけ、特殊な長靴に特殊なオーバーズボンの裾をしっかり入れた彼の姿は、昔の人々が描いたSF小説の挿絵そのままだった。ああ古代人よ、君の想像は半ば正しい。彼が月面でなく川の中にいる点を除けば。

川の中で、跳ねてきらめく魚を見たのだ、と友人は主張した。

その夜の彼の手元にはコップ半分の焼酎と、皿の上には乱雑に叩き割られたきゅうりが味噌とともに載っていて、つまり酔った沙汰での発言としか思えなかったので、僕は曖昧に頷いただけだった。

「君は魚を見たことがあるかい」

「スーパーで売られている切り身なら、いつも」

僕はスーパーの奥で、卵から切り刻まれるまで工場で過ごした魚から出来た切り身を、ひたすら並べるのが仕事だった。彼はふん、と鼻で笑った。

「あんなものは水槽の中しか泳いだことのない素人の魚だ。あんなのは魚と呼ばない」

「あれは素人かね」

「素人さ。そして俺がみたのが本物の魚なんだ」

ひっきりなしに雨の――しかも強い酸性の――降るこの街で、全

く管理のされていない水は危険極まりなく、雨水が無尽蔵に流れ出る川など地獄の川がそのまま地上にあらわれているようなものである。あの泥水の氾濫の中に生き物などいない。いても、彼が紙ナプキンの上に描いて示してくれたような、つややかで美しい鱗を持つような流線型の川魚などはいないだろう。あの酸に打ち勝てるような姿に進化した生物は、不完全で不気味な形のものばかりだ。無意味な刺を肌から噴き出し、生きるために強くなった肌はぼこぼことして、下に肉などつけていないような鱗。濁った目で濁った空を見ている。そんな魚や他の生き物たちばかりが、川辺に打ち上げられて腐臭をあげているのだ。

「なあ、おい。明日、川辺に行こう」

「魚を探すとか言うんじゃないだろうね」

「魚を探すよ」

冗談はよせ、と身を引いた僕の手を、彼は強い力で掴んだ。彼の腕はたくましいがどこか肌の色が嘘くさい。建物の中で人工太陽の恩恵を受けているこの街の人間特有の、不気味なコントラストをしている。

「俺は見たんだぜ」

雨粒を、生き物を、全部溶かしこんだばかりに薄汚く濁った水面から、嘘のように青く鋭い魚が、跳ねあがり閃き、こちらを見たのを。

しかしそれは彼の単なる見間違いにすぎない。

「いないと思うぞ」

「いるさ」

何度目かのこちらの叫び声に、彼はようやく返事をした。一時間前の、意気盛んだった声色は少しも薄れていない。僕はあきれた。こちらで立ちつくしている僕の気持ちにもなってみたらどうなのだ。

「どこにいるって言うんだ、なあ、もう一時間だぞ」

「まだ一時間だ」

「いい加減にしろよ」

魚を見かけた!といって喜んで川に探しに行った馬鹿ものはこいつだけではないことを、僕は知っていた。友人と同じように、やはり完全装備で川に突っ込んでいったのだと、酒場で笑い話にしていたのは誰だったろうか。友人が喜びを隠せていない表情で魚について話した時、僕の脳裏にはその笑い話が浮かんでいた。言おうか言うまいか悩んでいたのだ。その笑い話がどっと人々の笑いをさらったのは、冒頭の魚を見つけて完全装備で川に突っ込んでいった下りであることと、そいつが三時間の夢の果てに手にいれたのは、半分以上溶けたペットボトルの欠片だったのを。

僕は正直もう飽きていた。立ちっぱなしで、恐怖の権化のような雨が降り注いでいる川辺にいるのはストレスだった。もう教えてやろう。お前が探しているのは哀れな飲料水の入れ物なんだ。傷だらけの半透明のペットボトルの破片に、お前は夢を見ているに過ぎない。

「なあ、聞けよ、お前が探してるのは」

「ペットボトルなんかじゃない」

ゴーグル越しに、こちらからは見えないはずの友人の目が、確かに僕を見ていた。さっきまでどこまでも続くような果てのない泥水に立ち向かっていた彼のゴーグルはしとどに濡れ、体も濡れ、したたった水はまるで彼自身が溶けてしまっているようだった。川の激しい流れとも心臓の早鐘ともつかない音で耳がいっぱいになる。

「いたらどうするんだ」

昨夜、グラスをゆらゆらと手の中で揺らしながら、僕は軽い気持ちで彼に聞いた。

二皿目のつまみに注文したのは、確か人工の川魚のあぶったものだった。二膳の箸につつかれて、きちんと並んだ細い骨を晒していた。しなやかそうな骨の白色は、たとえその魚が本来泳いでいるべき川を生涯知らなくても、確かに生き物の色だった。

「放すよ、キャッチアンドリリースがルールだ」

「馬鹿な」

「いるだけでいいんだよ」

いるだけでいいんだ、と彼は繰り返した。紙ナプキンの上の、空想のあるいは太古の昔の魚は、落ちたグラスの水滴で滲んでいた。川を知らない川魚は化石のような姿になっていた。

太古の昔に泳いでいた魚という夢を、僕の向こう側に彼は見ている。夢がそこにいるだけでいい。酸の川の中を、どこか希望めいた魚が泳いでいるだけでいいのだ。まだどこかで、雨にしおれた人類の知らないところで、そしらぬ顔して泳いでいたら。

だが泳いでなんかいないのだ。見ろ、お前の体を。お前を溶かしたくてとかしたくて、川の水は乱暴に噛みついてはお前を濡らす。酸を、生き物を、過去の文明を、過ちを、愚かさを、未来を希望を、全部溶かした水は僕たちには強すぎる。そんな水の中で魚は泳いでなんかいない。大昔に描かれた図鑑に死んだ目をさらしているのを、僕たちは人工太陽の光でみな均一に日焼けした指でめくっては、雨空を見て生きるしかない。強い雨脚になぶられ、下を向いて、そのまま滅亡していくのだ、僕たちは。

なあお前、と僕は叫びたかった。なあお前、ペットボトルに夢を見て、酒場の笑い話になったのは、あれは、あの大バカ者は僕なんだぜ。

全身ずぶぬれになりながら、溶けることを拒みながら、ペットボトルの哀れな残骸を手に涙とも汗とも雨とも分からぬ液体に頬を濡らしたのは、僕なんだ。僕は、あの憎たらしい濁流が何を抱いて流れているのか知っている。夢なんかはもうどろどろに溶けてあとかたもないことを、知っている。

轟音をたてながら、雨水は川となって流れていく。ふと、友人は足元に手を伸ばした。褐色の流れを遮って、彼のぴっちりとした手袋は、無惨な姿のペットボトルの破片を引っ張り上げた。

彼の顔はあいかわらずゴーグルとカッパとマスクとで、まったく表情は見えなかった。しかし僕には、不思議と笑っているように見えた。

「魚はいるさ」

ペットボトルの破片は放物線を描いて、再び酸性の泥水の中へ消えていった。

彼は再び視線を川へと落とした。躊躇なく手を突っ込んでは、膝を崩れおとさんばかりにして水をさらう。泥色の氾濫と戦っている。僕はそれを眺めている。雨は、勢いを落とさないが、彼も僕も、生きるために必死な人類の発明のおかげでペットボトルのようにはならずにいる。ペットボトルのように溶けてしまえば、夢を見て絶望することなんかせずに済むことを、太古の文明人は知らなかったに違いない。おかげで僕たちはこんなに苦しんでいる。なんて可哀想な彼。僕。ペットボトル。魚。口の端が自然と上がった。もう一時間だけ、見守っていてやろう。

僕はもう一度叫んだ。出来るだけに穏やかに、優しく、叫んだ。

「魚なんていないさ」

「いるとも」

「いないよ」

「いるんだ」

「いないったら」

友人は起き上がった。泥とも乳白色ともつかない水が滴る。彼の全身が猫のように震えた。水を払うように、涙を払うように。

彼の手にあるものが、鈍い光を放ったのを、僕は見た。

(あとがき)

理科なんかからっきし出来ない文系が無茶した。ひどく反省している。




 


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