グリンピース
茶子鉛筆
それは仕事で遠方に行った時の帰り道だった。
高速道路の長い運転で尻や腰が痛く目は霞んでバックミラーにいるはずもない等身大ツキノワグマのぬいぐるみを空目したりした。これではいかんと私はパーキングエリアへと車を入れた。
透明なガラスに囲まれた喫煙所で一服する。休日であるということもあってかそこそこ人がいた。くたびれたような中年おやじたちの間に挟まれてこそこそと煙を吸い込む。
隣の中年おやじに話しかけられたのはそんな時である。
「すみませんが」「はい」
火を貸してほしいのだろう。私はそう考えてポケットの中のライターを探り出したが、中年おやじは煙草を近づけてはこず代わりにこう言ってきた。
「グリンピースをしませんか」
「はい?」
まじまじと相手の顔を見返したが、少々毛深いだけで特に異常は認められない。ライターを差し出そうとした私の右手が宙ぶらりんになる。
「グリンピースをご存じないですか?」
「グリンピース?あの豆」
「ご存じないですか」
ちょっと残念そうな中年おやじ。ちょっとどころではなく混乱する私。何だ。何なんだ。あの緑の豆以外のグリンピースが存在するとでもいうのか。
「グリンピースというのはですね、まあ一種の賭け遊びのようなものですな」
わたしの混乱にお構いなく、中年おやじは勝手に解説を始めた。「グリンピースっ」と口に出し、「グリン」右手でちょっと空間を右から左へ払うようなしぐさをし、「ピース」その手でこぶしを作る。殴られるのかと思い臨戦態勢を取ろうとしたがおやじにその気はないらしく、またも私の行動だけが宙に浮く。
「というじゃんけんをするんですよ」
どうやらさっきの握りこぶしはじゃんけんの「グー」だったようだ。
「あいこになるまでこれを繰り返すんですよ。そしてあいこになったら、『ドン』と口に出して言うのです」
「ドン?」
「先に『ドン』と言えた方が勝ちです」
「なんですかそれ」
それでは始めましょうかね、と中年おやじはこっちのセリフを全く聞いていない様子で「グリンピースっ」と始めた。訳もわからないまま、慌てておやじと同じように右手を払うしぐさをする。「お互いに握手しようとした手を払いのけあった」みたいな感じで私とおやじの手がぺちっと情けない音を立てた。
「グリンピースっ」おやじの勝ち。
「グリンピースっ」私の勝ち。
「グリンピースっ」あいこ。「ドン」
あっと思った時にはすでにおやじに先に言われていた。
「これで、わたしの勝ちですね」
若干得意げな顔で、おやじはスラックスのポケットに手を入れ、取り出したものを私に差し出してきた。勝った人が何かを出すとは面妖な、と思いつつ受け取ると、それは一粒のグリンピースだった。
「世界に緑と平和を」
そう言い残し、吸殻を灰皿に捨てておやじは喫煙所を去って行った。あ
とには何事もなかったかのような喫煙所の人々と、グリンピースと私だけが残された。
何だこれ。何だこれ。何だこれ。怖い怖い怖い。私は手のひらの上のグリンピースを見やった。見知らぬおやじのポケットから出てきたグリンピース。食べたくない。それよか持っていたくない。灰皿に捨てて行こうかと思ったが、周りの目が気になったのでとりあえず上着のポケットに入れる。
逃げるように喫煙所を出て、パーキングエリア内の食堂に入った。自動販売機で買ったコーヒーを手に席に着き、あたりを見回す。どこにでもあるパーキングエリアの一風景である。グリンピースの気配は感じられない。
ほっとしてコーヒーに口をつけると、背後から声をかけられた。
「すみません」「はい」
隣の空いている椅子を借りたいのだろうと椅子を動かすが相手にその気はないらしく、私は椅子に手をかけた中腰の姿勢のまま固まった。
「グリンピースをしませんか」
「えっ」
振り返ると、そこにいたのは白髪を上品にまとめた老婦人である。まさか、空耳だと思っているとこちらの思考を読んだかのように「グリンピースをしませんか?」と小首をかしげて再び聞いてきた。
まさかの二度目。またもやグリンピース。混乱の極みの中で、私は「いいですよ」と自然に答えてしまっていた。老婦人のしわだらけの手と私の手が情けない音を立てて触れ合う。
「グリンピースっ」あいこ。「ドン」また言われた。
「おばあちゃんの勝ち」
にこにこ笑った老婦人が小さな巾着袋の中から取り出したのはやはり、あの忌まわしき緑色の豆であった。グリンピースが一粒、ころんと私の手のひらに転がる。
「世界に緑と平和を」
あの中年おやじと一字一句違わぬセリフを残して、老婦人はお土産コーナーへと去って行った。私とグリンピースがあとに残される。
これは壮大なドッキリか。カメラはどこだ。それよりもこんなことをして何になる。視聴者が喜ぶはずもない。もしくはあれか、宗教か。「世界に緑と平和を」なんて、そこはかとなく宗教っぽい。しかしだとするとこのグリンピースは何なんだ。何の象徴なんだ。緑と平和の?そんな直訳を謳い文句にするな。
夢だ夢だ、こんなとこ早く出よう。私は急いでコーヒーのコップを空にすると立ち上がった。しかしまた、声をかけられる。
「すいません」一体全体何なんだ。
振り返ると、限りなく金に近い茶髪のいかにもヤンキーな感じの若者である。鼻にまでピアスがついているのが一瞬グリンピースに見えて目をこする。見間違いだった。
「グリンピース、しないっすか」
「……はあ、まあ」
答えながら、周囲を見渡す。こんな尋常でない会話が交わされているというのに、こちらを注視しているような人は一人もいなかった。唯一小さな男の子がこっちをじっと見ていたが、それはどうやらヤンキー君の鼻ピアスに注目しているだけのようだった。諦めて私はヤンキー君に向き直った。
「グリンピースっ」私の勝ち。「ドン」
勝ちに行くあまり、あいこでないのに口をついて出てしまった。ヤンキー君は嬉しそうに「お手付きは負けっすよ」と革ジャンのポケットに手を入れた。出てきたのはやっぱりグリンピースが一粒である。
「世界に緑と平和を」
例の決まり文句を口にすると、ヤンキー君は自動販売機コーナーに向かって去って行った。私とグリンピースを残して。
私は手のひらのグリンピースを睨みつけた。これで三粒目。減らすには、グリンピースで勝つしかないのだろうか。
それからというもの、パーキングエリアを出るまでに私は何人もの人に「グリンピースをしませんか」と声をかけられ、勝負を挑まれた。声をかけてくる人に共通点は全く見当たらず、老若男女問わなかった。私はただただ手持ちのグリンピースが一粒ずつ増えたり減ったりするのを実感しているほかなかった。
私の車の隣に止まっていたトラックのおっちゃんとの勝負に負け、手持ちが一二粒のところで、私はようよう車を発車させパーキングエリアから出た。ポケットに手を入れてみると、グリンピースがごろごろしていて非常に気持ち悪い。かと言って食べてしまうわけにもいかない。
「世界に緑と平和を」
彼らが一様に口にしたセリフがリフレインする。
高速道路の標識から緑色の豆が降ってくる幻覚が見える。高速道路は緑だらけである。怖くなってスピードを上げる。
家に持ち帰ったグリンピースは、どうしたものかと思っているうちに妻が料理に使ってしまい、私は知らないうちにそれを食べてしまった。おかげで何か起こるんでないかとおびえる毎日である。いつの日かどこかで誰かに「グリンピースをしませんか」と勝負を持ちかけてしまいそうな気がするのだ。「世界に緑と平和を」と言い残して誰かにグリンピースを渡してしまうような気がして仕方がないのだ。