きんぴらごぼうは好きですか

茶子鉛筆

彼女とメールアドレスを交換した翌日、俺は自室で下痢にのたうちまわっていた。

平日の昼下がりで天気は良好、今頃学校ではみんな弁当を開いていて教室はにぎやかなのだろうけど俺は下痢。トイレと自室を往復する以外の行動をとることが困難で、「あんた、ご飯は?」と顔を出した母親を「いらないから」と冷淡に追い返し、うっかり冷たいスポーツドリンクを飲んで事態を悪化させた。いるかどうかも分からない下痢の神様に祈るような心持ちで、俺は今日何回目かのトイレに立つ、というか、這う。

両腕を垂らしたゾンビのごとき状態で自室まで戻ってきた俺を、ランプを点滅させた携帯が迎えた。メールだ。友人からの「サボり糾弾メール」か、スパムメールか、「貴方様に1000000万円の遺産が」系メールか。ベッドにうつぶせになり携帯のメール画面を開いて、送信者の名前を見て飛び上がるほど驚いた。

彼女の名前だ。昨日アドレスを交換したばかりの彼女からメールが来た。驚きのあまり腸がぐるぐると不穏な音を立てる。

『今日はどうしたの?ノートとか、よかったら貸すよ!』

簡素ながら優しさのにじむような文面で、これだけで下痢も日本経済も何も憂鬱の種はすべて治るような気がする。やはり今、学校では昼休みなのだろう。メールを受け取った者の礼儀として、俺は返信メールを打って送った。『下痢で死にそう』送信ボタンを押す。

しかしだ。

メールが送信された旨の画面を見てから、「今昼休みということは、彼女たちは昼食の最中では?」というささやかながら重大な事項に気づいた俺は、下痢も相まって再びベッドの上を転げ回った。

だって考えても見てほしい。いくら客観的事実だとしても、食事中のしかも女性に、「下痢」というワードを含んだ文面を送ってしまったのだ。食事中に「下痢」なんて文字を見せられたら個人差はあれど不愉快な気分にもなるだろう。「下痢かよ」だ。明日から俺は「下痢男」だ。ああどうか彼女が、自販機までジュース買いに行く途中とかでこのメールを見ますように、もしくは食事が終わってから携帯を開きますように。情報化社会は後悔してからでは遅い。俺の携帯の送信履歴は抹消できても、彼女の携帯の受信履歴は抹消できない。

また携帯が振動したのですわ彼女からの返信か、と画面を開いたら級友からの「サボり乙」メールで、俺は机の上に散らばる下痢止めの薬群と医者の処方箋とを写真にとって送りつけた。

どっと疲れた。

ベッドに仰向けになると、窓の外の好天気が視界の端に映る。彼女が「下痢メール」を見てその顔をしかめていないことを祈りながら、俺はベッドにずぶずぶ沈んだ。

俺が彼女とメールアドレスを交換できたきっかけははっきりしているが、俺が彼女の姿を無意識下で追うようになったきっかけというのははっきりしない。まあ無意識のきっかけなんてわからないだろう。俺はクラス内では身長が高い方で勉強よりは運動タイプのただの高校生だし、彼女は班長にはならないけど保健係とかにはなるタイプのただの高校生だ。同じクラスで同じ電車通学で人間であるということ以外に共通点はない。四月に中庭の桜の木の下で撮ったクラス写真では、俺は見事にそっぽを向いて写っている。「はいチーズ」の代わりに「すっしぃー」という謎の合図を使う写真屋がシャッターを切った瞬間に彼女を見ていたからだ。俺はそれを「すっしぃー」のせいにし

て誤魔化した。

それから現在に至るまで、磁石のS極とN極かと思われるほど、学校生活において俺の視界はたびたび彼女を捉えた。

文化祭の縁日で使う水ヨーヨーを準備する姿を、教室移動の際に友達と笑いさざめきながら廊下を歩く姿を、駅のホームで電車を待つ姿を、球技大会でクラスのバスケチームに声援を送る姿を。

俺は水ヨーヨーを浮かべるためのビニールプールを膨らませながら、バカ友達が廊下にぶちまけた筆箱の中身を拾い集めながら、駅の自販機で間違えて買ったノンカロリーコーラをもてあそびながら、せっかく回ってきたパスをバックパスでダメにしながら、ぼんやりその姿を捉えていた。

別に俺はストーカーですごめんなさいなどと懺悔をするつもりではない。ストーカーするならもうちょっと、彼女の家族構成とか自宅とか携帯のログとかローファーのメーカーとかまで執拗に追いかける。つまりそういう学校以外の彼女についてはまったくと言っていいほど知らないのだ。メールアドレスでさえ。

唯一知っているのは彼女が俺の降りる駅より二つ手前の駅で電車を降りることだ。彼女が電車から姿を消した後、俺は降りる駅までの十数分間を、窓の外の街灯の列を眺めて過ごしている。

見ているだけの間にも季節は変わり、そろそろ秋とかいう季節になろうとしていたが、彼女と「仲のいいクラスメイト」程度の仲になることもできていなかった。交わしたことがあるのは間に俺か彼女の友人を挟んだ会話か、二人の間では事務的な業務連絡的会話がせいぜいだった。

「昨日のテレビ見た?」などと当たり障りのないことを言ってそこから自在に会話を膨らませて昼休み中楽しく会話を交わせる人間がうらやましい。「あの子と楽しくおしゃべりしたい」という思いを実行しようと思えばできるのだろう。しかし俺は楽しい話題を振ることができたためしなどなく、何か口に出そうとして焦り、「きんぴらごぼう好き?」などというわけのわからない話題を振ってしまうというのが今までのパターン、というか俺の病状だった。病気。もう病気。さらに俺の無駄に高い身長が無駄な威圧感としてそこに加わり、「きんぴらごぼう好き?」をますますわけのわからないものにする。

要するに何を話せばいいのかわからない。

ただでさえ人恋しい季節の、ある日のことだ。

その日は俺が彼女とメールアドレスを交換することができた日であり、その日に起ったことがきっかけだった。とはいえ俺は何もしていない。また、ただ見ていただけだ。これも俺の病状か。

秋になり日は短くなったが部活の時間は変わらない。その日俺は片づけ係だったせいで六時の電車に乗れず、友人たちは当たり前だが俺より六時台の電車に間に合うことを優先して先に帰った。次の電車は約四〇分後の七時過ぎの電車。俺はもう暗い道を駅に向かっててくてく歩いた。

国道を外れて、生け垣と石塀で囲まれた民家のあたりを抜ける。人通りもなく暗いくせに街灯は乏しく、道の真ん中にいた猫を踏みつぶす寸前までその存在に気付かなかった。そこらへんの草の陰からぬら

りひょんみたいな妖怪が出現しそうだ。

足元に気をつけながら歩いていた俺は、電柱のある曲がり角を何気なく曲がろうとして、ふと足を止めた。

生け垣が切れて、右手に線路左手にすすきの茂みと田んぼ、という今までに輪をかけてさびれた道。民家の光が遠い。一本だけぽつりとある街灯の下で、二人の人物が立ち止まって向かい合っていた。俺から見て手前に女性、奥に男性。二人とも立ち止まったまま動かない。女性の前に男性が通せんぼしているように見える。

何だ。決闘でもするのか。親の仇に再会したのか。生き別れた父娘か。異様な雰囲気に、脇を通り抜けることを躊躇する俺、微動だにしない女性、もじもじとトレンチコートの前をいじる男性。おや、女性の着ている黒い上着に黒い膝丈スカートに黒ハイソックスなんて、まるでうちの高校の制服みたいじゃないか――と思ったらそれは正真正銘うちの高校の制服で、背中の半ばあたりまでの髪にあの通学カバンはまるで彼女みたいじゃないか――と思ったら、その女性は、彼女だった。

彼女は何やってるんだろ、と俺が思うのと、男性の方がトレンチコートの前を彼女に向かってバッと開くのは、ほぼ同時だった。

男性はトレンチコートの下に何も着ていなかった。

何も着ていない。まさか風呂上りではないだろう。要するに露出狂。早く言えば変態。彼女が「ひ」とかすかな声を上げて一歩後ろに下がった。カバンが落ちた。

彼女と露出狂の間の距離は、定かではないが、彼女が全力で逃げ出しても露出狂が走って追いついて抱きつくくらいの変態行為は働ける距離だ。ただ筋肉美を誇示したいならボディービルダーにでもなればいいものを、また女の子に抱きつきたいなら「抱きついていいですか」と書いたプラカードを掲げてイタリアあたりの繁華街に立てばいいものを、何でよりによってここで、彼女の前で、露出狂をやってるんだ。おのれ露出狂、許すまじ。俺は電信柱の陰から一歩を踏み出した。

この時俺の頭の隅には、これはチャンスではないか、という考えがちらついていた。彼女が露出狂の被害に遭うというシチュエーションは最悪だが、学校ではできなかった彼女とのかかわりが少しでもできるのではないか、と。露出狂に向かっていかにかっこ悪いかを論理的に教えてあげることも暴力をもって制裁を加えることも俺にはできそうにないが、第三者の介入により奴を逃げ出させることならできるかもしれない。そう見越しての一歩だ。卑下も思い上がりもない一歩だ。下心はあるが。

しかしこの世界、何事も上手くいかないようにできているものだ。

まず露出狂が、どこぞの四天王のようなポージングで奇声を発した。日本語の文字であらわすことはおよそ不可能で、「怪鳥の鳴き声」とでも言えばしっくりくる。人智を超えた奇声に、俺は思わず一歩後ろに下がる。

こんなことではいけない。たかが怪鳥の鳴き声ごときにびびってどうする俺。彼女の前から露出狂を追い払うんだろ俺。たとえ相手が社会的に見てなんだかやばそうな薬をキメてたとしてもかまうことはないじゃないか。俺は乏しい勇気をふるって再び一歩前へ踏み出した。

次の瞬間だ。

今までおびえていた彼女が、突如として地面にうつぶせに倒れたのだ。トラックに轢き殺されたカエルのような格好で。何が起こったかわからない。露出狂もたぶんわかってない。恐怖のあまりの気絶か。死んだふりか。そのまま彼女が動かないため、露出狂が不思議そうな顔になる。ここだ、と俺が二歩目を踏み出すと、妙な音が聞こえてくる。

「限界まで洗濯物を詰め込まれた乾燥機のモーター音」に似ている。

その音がだんだんだんだん大きくなっているような気がして、俺は未知の恐れから一歩後ろに下がる。何でこんな、効率の悪い「三六五歩のマーチ」みたいなステップを踏んでるんだ、俺が出て行って一言「何してるんだ」とでも言えば奴は逃げるかもしれないじゃないか、頑張れ俺――

ふと、さっきの「乾燥機のモーター音」が彼女の方から発せられていることに気づいた。

人とは思えぬその音を発しながら、彼女ががばっと顔を上げたのはその時だ。なんのことはなくもないが、彼女がうなり声を上げていたのだ。ほかならぬ彼女が髪を振り乱し、両手両足を使った匍匐前進で露出狂に向かって突撃した。

何かの悪霊にとり憑かれたような姿で、後ろから見ている俺でも突然で怖く感じたのだから、その姿を正面から見つつ向かってこられている露出狂にとってはより恐怖だっただろう。

実際、露出狂は「キャアッ」とどっちが被害者だかわからないような乙女な悲鳴を上げ、Uターンして夜道を走り去っていった。トレンチコートの前を合わせるのも忘れており、マントのようにひらひらはためいている。露出狂であることを全力主張しているようなあの姿では、「逮捕してください」と表示された電光掲示板を持って走っているようなものだが、それより今は彼女のことだ。

彼女は露出狂が逃げたのを見るとおもむろに立ち上がり、ハンカチを取り出して制服の汚れを丹念に落とした。

ハンカチをポケットにしまった彼女は、道に落ちたままだったカバンを拾うために振り返った。

電信柱の陰から半身を踏み出した状態で固まっている俺と目が合った。

目を真ん丸に見開いた彼女の顔を、右手の線路を走り抜ける電車が照らした。

俺と、おそらく彼女も乗るはずだった七時過ぎの電車だった。

露出狂は逃げ、七時の電車も逃し、俺と彼女は成り行き上、二人で駅までの道を歩いていた。

せっかく彼女と二人で歩けているというのに、俺はまともに言葉を発していなかった。彼女もひっきりなしに話を振ってくるというタイプではないし、共通の話題もなく、あたりに人通りはなく物音もせず、気まずい度は最高だった。なにか話題を振ろうと言葉を探したが、「ピカチュウとライチュウだったらどっちが好き?」「月の模様がカニに見えるっていうけど俺はそう見えたことないんだよね」「ラーメン食べたいな」等いつもの病状が表れていた。

しかしこのまま会話がないのも気まずい。もう「ラーメン食べたいな」でいいじゃないか。もう夕飯どきも過ぎたし、今日は肌寒いし、と限りなく自分に甘い自己弁護で己を励まし、何度かの躊躇の後に口を開いたが、

「あのさ」

「あの」

と彼女と声が見事に被り、俺はどこぞの漫才のように「あ、どうぞどうぞどうぞ」と順番を譲った。

「えーっと……

しばらく呆けたような顔で、言葉を探しているような彼女だったが、やがて妙にせっぱつまった表情でこっちを振り向いた。

俺は背が高いので自然と見下ろすような形になってしまう。

「えっとあの、ホイミスライムとはぐれメタルだったらどっちが好き?」

今までの流れから小気味よいほど外れた言葉だった。

……

……

……はぐれメタル、かな」

「そっか、わたしホイミスライムのピンク色のやつが好き」

「そっか」「うん」

……

……

ああ神様。

この世界に少なくとも一人、俺と同じような病状を持つ人を作ってくれてありがとう。突拍子もない話題しか提供できないという同じ症状に見舞われている人間を作ってくれてありがとう。そして何より。

何より、そんな人を俺とめぐり合わせてくれてありがとう。

「あのさ」

「何?」

声をかけてしまってから、何を言うべきか悩んだ。でももういい。気の利いた話題がなくても話はできる。

……きんぴらごぼう、好き?」

「きんぴらごぼうかあ」

彼女は少し考えた後、こう答えた。

「きらい」

その後、スーパーボールのようにあちらこちらへ飛んでいく会話を交わしながら、俺と彼女は駅まで歩いた。

脈絡のない話題に翻弄されながらも俺は、「メアド教えてもらってもいい?」と言うことと、彼女とメールアドレスを交換することに成功した。

いつもと同じ田舎の電車なのに、まるで新幹線に乗っているようなわくわく感を伴って帰宅し、明日も彼女と話せるだろうかとうきうきしていたところまではよかったが、翌日はこの下痢だ。あの日の夜に神に捧げた感謝を取り消したくなる。たいてい神とかなんとかは意地悪だ。

一日たつと下痢も快方に向かったため、次の日は登校した。

昇降口を入って階段を上り、多数の生徒の間を縫って教室を目指す道すがら、俺は彼女に掛ける言葉を探していた。共通の話題と言えばあの日の夜の露出狂しかないが、教室で露出狂の話はまずい。やはり順当に「おはよう」からか。いい一日はいい挨拶から。おはよウナギ。ダメだまた話が飛ぶ。おまけに考え事によってまた腸が不穏な動きを見せ始めた。もうこうなったら下痢の話でもするか。いいやそれもちょっとないだろう。やっぱり挨拶。そうだ挨拶。

しかし、一つ手前の教室の前で彼女とばったり出くわしたことにより、俺の頭からすべての考えが吹っ飛んだ。後には不穏な動きをする腸しか残らない。

彼女が「あ」と言い、俺が「あ」と言い、しばらく空白の時間が流れた。いつも通り軽やかで朗らかな彼女と、背中を丸め腹を抱えウォール街の失業者のごとき格好の俺。

……

何か言おう。何か。

……あのさ、下痢の原因ってなんだろうね」

馬鹿か俺は。

「うーん」

彼女はちょっと間を置いたのち、

「フグ毒にあたったんじゃないかな」

と笑顔で言って、「何か困ったことあったら言ってね」と言いつつ廊下の向こうへ去った。

俺はフグ毒にあたった覚えはない。

これから卒業するまでに、彼女とクラスメイトであること以上に仲良くなれる確証はない。俺だってこれだけで彼女との関係が劇的に変わるとは思っていない。きんぴらごぼうと同じになるか、ピンク色のホイミスライム程度でも思われるようになるのか、それはこれからの俺の行動次第なのだろう。どうでもいいなんて言ったら嘘になる。別に仲良くなんかならなくてもいいと言ったら嘘になる。

よく、この世界の自分が選ばなかった選択肢を選んだ時の自分が存在するパラレルワールドがいくつも存在する、という話を聞く。もしそれが本当だとしたら、彼女とまったく接点を持たないまま生きていく俺と、彼女と他人もうらやむようなラブラブいちゃいちゃカップルになっている俺と、その他あの夜に露出狂に殺されてる俺とか、露出狂と間違われて逮捕拘留されてる俺とか、いろいろな俺がいるんだろう。パラレルワールドの俺だけに彼女といちゃいちゃさせておくのは、なんだか悔しい。

きんぴらごぼうがダメならふろふき大根はどうだろう。

まだまだ彼女にかけていない言葉はたくさんある。

物理的に隣にいるんじゃなくて、一緒にいたいんだなんて言ったら、彼女はあの夜のような顔をして驚くのだろうか。

 


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