のらねこのくには川の向こう
山槻智晴
家の庭でボール遊びをしていた祐子はふと気が付きます。塀の上、
縁側の下、植込みの向こう。彼らが、どこにも見当たりません。
祐子が探し回っていると、お母さんが洗濯物を干しに庭へ出てきました。祐子はお母さんに尋ねます。
「ねえおかあさん、ネコさんたちどこいっちゃったの?」
洗濯物の入ったカゴを重そうに降ろしたお母さんは、少し考えてからこう言いました。
「猫さんたちはねえ、野良猫の国に行っちゃったんだよ」
そうしてお母さんは洗濯物を干し始めます。
野良猫の国。それはどんな場所なのだろう。祐子の頭には日向ぼっこをしているたくさんの猫の姿が浮かびました。
「おかあさん、のらねこのくにってどこにあるの?」
「野良猫の国はねえ、どこか、遠い所にあるんだよ」
お母さんは服を広げながら答えます。
それを聞いた祐子は気になって、居ても立っても居られなくなりました。
「ゆうちゃん、いってくるね」
祐子はボールを隅に置くと、野良猫の国を探しに外へ出て行きました。洗濯物の皺を伸ばす音に遮られ、祐子の言葉はお母さんには聞こえませんでした。
祐子は歩きました。家を出て、近くの公園を通りすぎて、お買い物をするスーパーも通り過ぎて、そして小さな橋に行きつきました。
その橋を祐子は渡ったことがありませんでした。お母さんとするお散歩はいつもこの橋の近くまでで、そこから先には行かなかったのです。
橋は本当に小さく、人しか通ることが出来ません。そして何より木造で、木の橋板の合わせ目からは下の川の流れを見ることもできました。
「あれ?」
橋の手前でその隙間から下を覗いていた祐子は、川の端に生える草むらの中に白い何かを見つけました。それの所々には茶色と黒の斑点も見えます。
「……ミケちゃん?」
それはよく祐子の家に来ていた三毛猫でした。お母さんがミケと呼んでいたので、祐子もそれに倣って呼んでいました。
「ミケちゃん、ミケちゃん!」
呼びかけますが、ミケはピクリとも動きません。仕方がないので、祐子はミケの近くまで降りて行くことにしました。
土手には背の高い雑草が茂っていました。そのせいで斜面が急になっていることに気付かず、祐子は滑り転がるようにして下に落ちて行きました。服や髪は泥で汚れ、また落ちるときには体中を擦りむいてしまいました。
祐子は辛くなり泣き出します。ですが、その泣き声は誰にも届き
ません。涙は次第に枯れていきました。
涙の跡を袖で拭うと、祐子はミケの場所まで歩きました。
「ミケちゃん、ゆうちゃんだよ?ミケちゃん?」
祐子はミケの背中をさすりました。その体は冷たく、泥と埃に汚れていました。
「……ミケちゃん?」
ミケが普段とは違うことに気が付いた祐子は、そっと、その顔を覗き込もうとしました。すると。
ナー。
ミケが顔を上げ、小さく鳴きました。死んでいることを想像した祐子は驚き、そして喜びました。
祐子はミケを抱き上げます。これまではそっと触る程度しか出来なかったのですが、今日のミケは大人しく何の抵抗もなく抱き上げることができました。
「よかった。……ミケちゃん、しんでなくてよかった」
祐子はミケを強く抱き締めました。
しばらくその状態でいた祐子とミケでしたが、ふと気になり祐子はミケに聞きます。
「ミケちゃんは、のらねこのくに、いかなくていいの?」
ナー。
ミケは祐子の腕からするりと抜けて、川の中に入っていきました。
川は浅いようで、ミケの足元程にしか水はありません。
ミケは対岸に着きました。するとそちらの端に生える草むらから他の野良猫たちが姿を現しました。
それを見て祐子は思いました。あそこが野良猫の国なんだ、と。
祐子も川を渡ります。川は浅く、水は祐子の膝下辺りまでしかありませんでした。
対岸に着き見渡せばそこには何匹もの猫。みんな気持ちよさそうに日向ぼっこをしています。祐子も何だか眠くなり、ミケの隣に寝転がりました。
その日の午後には雨が降りました。水かさはそれ程増えた訳ではありませんでしたが、橋の下にあった軽い死骸は流されていってしまいました。
それでも野良猫の国の住人たちは、気持ちよさそうに日向ぼっこを続けています。野良猫の国は、今日も平和です。