ダレカ  山槻 智晴



「ここで、問題。正解すれば、今までのことは全部許してあげる」

 にっこりと笑う女に、男は鋭い語気で言葉を向ける。

「許すも何も、お前、自分が何をやったか分かってるのか! 人殺しだぞ! これは!」

「人殺し、ねぇ!」

女はけたたましく笑い出した。

 常軌を逸した妻の態度に、恐る恐る、しかし何とか虚勢を張りながら男は尋ねる。

「何が、おかしい?」

心底おかしくて堪らないといった様子で笑い続けていた女だったが、男の言葉を聞くとぴたりと笑い止んだ。

「誰が赤ちゃんを殺したんだっけ? お腹の中には赤ちゃんがいたのに、あんなに乱暴したのは誰だっけ? 誰のせいで、流産して、誰の、せいで、私は、もう子供が、産めなくなったと、思ってる?」

 女は、愛人だったものの頭部を掴むと、それを思いっきり、何度も何度も男に押し付けた。

「まってくれ、妊娠二か月なんて、お腹が膨らむわけじゃないから気が付くはずがないじゃないか! それにまだ産まれてもいないから殺したことには――」

 女は、喚き立てる男の口を塞ぐように、萎びた頭部をさらに強く押し付ける。

 口を開けば、それが中に入ってくる。男は黙るしかなかった。

「ようやく静かになったね。……じゃあ問題。私の名前、なーんだ?」

「そんなの、決まって――」

「チャンスは!」

女は愛人の頭部を力強く押し付け直し、その声を遮る。

「チャンスは、一回だけ。よーく考えて、答えて?」

……チャンスは一回? 間違えたら、どうなるというのか。

男は目前に迫る、萎んだ茶色の肉塊を見つめる。

もし間違えたら、……………………。

男の顔が引きつる。

もう、こいつはダメだ。狂ってる。このままじゃあ、本当に殺される。何とかしてこの場を切り抜けて、逃げなければ。

今こいつは、夫に浮気されて気が立っているんだ。だからきっと、かけて欲しいのは優しい言葉のはず。妻の名前を答えさえすればいいだけの、簡単な問題だ。そうだこんなもの、適当に機嫌をとりさえすれば――。

「よーく、考えて、ね?」

女は、萎れた塊を少しどかすと、夫の思考を遮るかのようにその

眼を覗き込んだ。男には、女の瞳に今まで見たことの無い色が映っているように思えた。

「ねぇ知治さん、あなたはまだ、私があなたの事を愛してるんだと、そう思ってる?」

妻の眼が、怪しく爛々と光る。

「あと、十秒ね。時間内に答えられなかったら死んでもらうから。

じゃあ始め。じゅう、きゅう、はち」

男の顔に驚愕が走る。一体この女は、俺に何をして欲しいんだ?もう俺のことは好きではないのか? こいつは、今確かに『死んでもらう』っていいやがった。まさか本当に俺のことを殺すつもりなのか? 実際、千晴はもう殺された。しかも訳の分からない方法で、人の死体とは思えないような姿にされてしまった。

「よん、さん、に、いち、…………」

狂ってる、人間に対する冒涜だ。こいつはもう人間じゃない! 

こいつは鬼だ、悪魔だ、怪物だ。とにかく何でもいい、何かおかしなものだ、こいつは、こいつは、こいつは――――。

結局、男は時間内に答えることができなかった。

「あ〜あ、最初からヒントは出してたつもりなんだけどなぁ。まさか本当に私の名前が分からなくなったわけじゃないよね?」

 女は知治の上から彼の愛人だったものを取り除くと、カーペットに叩き落とした。表面の萎れ具合からは少し想像し難い、軟らかい音がした。

ああ。もう終わった。何もかもが終わった。

目前に死を感じながら、男は今までの行いを振り返る。

一体自分は何を間違えたのだろう。こんな女と結婚してしまったことか? 子供ができていると分からず暴力を振るったことか? こいつなら浮気をしていても黙認してくれると思い込んでしまったことか? それとも……。

千晴に出会うよりも先に、この女に出会ってしまったことか? 

もし出会っていなければ、千晴がこんな目に遭うことは無かったはずだ。

「……千晴。ごめんよ、千晴」

男の目に、うっすらと涙が浮かぶ。

その夫の様子を確認すると、妻は男の入ったケースの隣に置いてある大袋に入った塩を、シャベルで掬い出しては、夫の入っている衣装ケースへ放り投げ始めた。

さくっ、ざ。さくっ、ざ。さくっ、ざ。さくっ。

ケースの中に、シャベルで塩が敷き詰められていく。

「だ、誰か! 誰か助けてくれ! お願いだ! 誰か誰か誰か!」

半狂乱で叫びながら助けを乞う男。

「私は、ダレカじゃない」

 切実な響きを湛えた妻の言葉は、夫の狂声に掻き消された。

白い粒が男の顔を隠す頃には聞こえてくる声も小さくなり、その嵩が増して衣装ケースが真っ白に埋まる頃には、もう何も聞こえなくなった。

女は、丁寧にしっかりと、そのケースの蓋を閉める。

「最後まで呼んでくれなかったね、私の名前」

女は真っ白になったケースを眺めながら呟くと、力無くその場に崩れ落ちた。

 

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