アベレージの向こうへ
終夜 縁
 
私は良くも悪くも苦労をしたことが無かった。今までの二十年、特に努力しなくても何だって人並みにこなしてきたし、努力したところで中の上がいいところだった。だから私は、努力というものを止めた。頑張っても頑張らなくても平均しか取れないのならば、頑張るだけ無駄。幸い、日本という国の生活水準の平均は高い。ただ何となく暮らしていても、私ならばそれなりに「平均」的な生活ができるのだろう。それなりの会社に就職し、それなりの伴侶を得て、それなりの幸せを掴み、それなりに生きて死ぬ。そんな人生を送るのだろうと予想していた。別に悲観はしていない。いままでの経験上、きっと人並みの幸せは得られるはずなのだから。私よりも幸せな人も、私よりも不幸な人も、きっと同じ位居るのだ。自分より上を見て羨むことも自分より下を見て優越感に浸ることもしない。したところで空しいだけだ。下からは見上げられる。上からは見下ろされる。しかし決して誇れるものではない。平均とはそういう位置だ。私はこの位置に慣れすぎた。今以下にはならないことが約束された安住の地。そして今以上にもなれないことが約束された温い牢獄。きっと私は、このまま生きていくのだろうと思っていた。
確かにそう、思っていたのだ。
そのときまでは。
 
 
「眼が生きていない」
 
久しぶりに会った幼馴染に、そんなことを言われた。
この幼馴染は言ってしまえば運動馬鹿だった。特に走ることにかけては昔からほかの追随を許さなかった。その代わり、勉強の方はからっきし……とは言わないまでも下から数えたほうが早かった。こいつは高校受験のときに早々に推薦入学を決めて、県外の陸上強豪校へと進学していた。県内の中堅の高校に入った私とはそれきり会うことは無かった。今回は実に五年ぶりの再会だったが、出会い頭に言われたのだ。「眼が生きていない」と。
「……急に失礼だな」
「ホントの事だよ。見ないうちに死んだ目になってる」
「昔から変わってないと思うけど」
「死んだ眼というよりは、やっぱり生きてない眼だね。死んでないだけの眼」
「そっちも中身は変わってないな。ずけずけとものを言うところも昔のまま」
会うなり挨拶もなく、一言目には例の言葉だ。正直成人としてどうかと思うものの、昔とあまり変わらない幼馴染に少しほっとする自分が居る。
「ひさしぶり。元気してた?」
「それなりに。そっちは……聞くまでも無いか。結構、テレビで見るし」
この幼馴染は体育系の大学に進み、マラソンの選手をやっている。全国中継の大会で初めて名前を見たときにはそれなりに驚いた。
「まあ、今のところ走るしか能が無いからね。やれるとこまでは走ることにしてる」
「まあ、頑張ってよ」
正直なところ、私にはこの幼馴染は少々眩しい。何でもそつなくこなせるよりは、他は低くても突出した何かが欲しいと思ったのは一度や二度ではない。嫉妬なんてしたところで意味など無いが、羨ましいものは羨ましい。
「で、そっちは?」
「まあ、いつも通り。可もなく不可もなく。毎日が日常」
「……そんな生活してるから、眼が死んでるんだ」
「ほっといてよ」
電話やメールのやり取りはしたものの五年も直接会ってないとは思えない程話はスムーズだ。昔、顔を突き合わせて話していた頃のままのようだ。
 
それから私達は近くのファーストフード店に場所を移した。五年分の積もる話、ということではないが最近あったちょっとした事を話すだけでも時間はどんどん過ぎていく。その会話の中で、こいつは事あるごとに人を「目が死んでる」と評価する。いい加減怒ろうと思ったものの、向こうも挑発のために言っているわけではない。それに、この幼馴染に私の言葉が効果を表すとは思えない。
「だからさ、どうしたんだって聞いてるじゃないか。五年前はそんな諦めたような雰囲気じゃなかった」
「昔からこんなんだったって。人間、そんな簡単に変わらない」
本当は自分でも気がついているのだ。こいつが「変わった」と言っているのが本当であると。とは言え、何か劇的な出来事があった訳ではない。簡潔に、ものすごく簡潔に言えばこいつの言ったとおり諦めてしまっているのだ。頑張った全ての人が報われる事なんて無いのはわかっている。けれど、頑張っても、全く頑張らなくても結果が変わらない事に、私は耐えられなかった。
今居る大学に一切の努力も無く入れた時点で、私は頑張るのをやめた。頑張らなくても、それなりの結果は出せるのだ。努力する必要等どこにも、無い。
「どうかした?」
「……いいや、何でも」
「……そっか」
私がそっけなく返すと、向こうもそっけない返事を返してくる。それきり、少し会話が途絶える。今日はかなり話したからそろそろお開きだろうか。そう考えていると、この幼馴染は不意に立ち上がり、ファーストフードのトレイを片付けだした。
「そろそろお開きだね」
「――――走るよ」
荷物を肩にかけた私の腕が、そいつに引っ張られる。
 
人並みを掻い潜って、私達は駆け出した。
 
 
全速力ではないもののたっぷりと二十分は走らされて、この幼馴染はようやく手を離した。何でも人並みにこなせるとは言え、これはそもそも人並みなものではない。当然息は切れて、心臓はバクバク。呼吸を整えるのに一苦労だった。
「急に、どうした」
「……今、少し足の早い人くらいの速さで走った。平均なんて、優に超えてる」
どうやらこいつは、私に気を使ったらしい。古い付き合いだから、きっと私の悩みも分かったのだろう。
「短い距離だったからね、別に不思議じゃない。普通の人でも頑張ればこれくらい走れるでしょう」
「昔は、何でもできるすごいヤツだと思ってた。苦手なものなんて何も無くて、すごいと思った。でも、いつも陰で頑張ってた」
「……もう、そういうのは止めた。頑張らなくてもそれなりにできるし」
「何も頑張らずに……今は、何をやってる?」
何をするにも頑張る必要が無いから、私はただとりとめも無く日々を過ごしている。
私は、何もしていない。
こいつの問いにはこの答えを返すしかない。
「どうせ暇なんだろう。じゃあさ、暇つぶしに頑張ってみろよ。暇つぶしなら、別に無駄になってもかまわないだろう」
その言葉は、妙にすとんと落ちた。
普通の人に対してはなめた言葉だろう。しかし、こと私に対してはこれ異常なく腑に落ちる言葉だった。努力が無駄になるのが耐えられなかった。それで努力を止めて、何もしなくなった。虚ろな時間を、努力で埋める。暇つぶしなのだから、無駄になったところで構わない。
 
いつからか冷めていた心に火が入ったような気がした。
 
きっと探していたのだ。もう一度頑張るきっかけを。
 
「……眼が少し生き返った」
「まあ、ね」
 
今度は無駄になったって構わない。
時間を無駄にしたところで、私なら他が疎かになったりはしない。
 
さて、そろそろ動き出そう。
 
今度こそ、アベレージの向こう側を目指して。

 

 

 

〈再開〉


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