看板屋と兎の月

寄木露美

その日の月は随分と美しかったのだ、と目の前の男は語り出した。男は仕事終わりなのか薄汚れたつなぎを身に纏い、タオルを頭に巻いている。一方の僕はくたびれた紺色のスーツとスラックス。なんてことのないサラリーマンの格好だ。何が楽しくて三十半ば程度の男二人が居酒屋で会話しているのか我ながら疑問に思う。ただ男の話に妙に引き付けられる、不思議な感覚を覚えながら。

居酒屋ののれんをくぐると、客はほとんどいなかった。唯一カウンターの奥でつなぎ姿の男が熱燗を啜っていた程度だ。なんとなく男の隣に座ると、男はちらりとこちらを見た。夜のような真っ黒な瞳。何かにひどく見透かされたような気分となり、思わず目を逸らす。店の奥に置かれたテレビの中でキャスターがつまらないニュースを言いはじめる。与党と野党の争いが云々。相変わらず世の中つまらないことしか起こっていない。そうしてお互い黙り込んでいると、ふと隣の席に座っていた男が口を開いた。

「最近随分としけた話しか世の中出てこないなぁ」

男がぼそりと呟く。思わず男の方を見ると男は胡散臭げな笑みを浮かべた。

「あんたもそう思わないかい?」

「ええ、まあ」

思わず返事を返してしまった。つなぎ姿の怪しい男に。

「やっぱあんたもそう思うだろう。俺もまさにそう思っていたんだ」

男は笑いながら僕の肩を叩いた。どうやら結構酒が回っているらしい。見ず知らずの人間の肩を叩くなんて相当の絡み酒だ。随分厄介なのと隣り合ってしまった。

「なあ、世の中が楽しくなる話が聞きたいかい?」

男はそう僕に尋ねた。夜の色の目が僕の目を射る。思わず頷くと男はにやりと笑みを浮かべた。

「じゃあ話そうか、この間俺が経験した奇妙な話を」

「月が美しかった、とは」

僕は男に問いかける。やや長い無精髭の生えた顎をさすりながら、彼は考え込む仕草を見せた。

「なんというか、とりあえず月が美しかったのさ、まあここから話が始まるんだから、黙って聞いてなって」

男はにやりと笑う。まるで得意なものを出し惜しみするような彼の顔が少し腹立たしくなったのだろう。思わず顔を顰めてしまう。看板屋は僕の顔を見ても飄々とした笑みを崩さずに、目の前の焼き鳥へと手を伸ばした。

「全然関係ない話なんだが、あんた何でこの店を選んだんだ?ここらに飲み屋は多いし、ここの店を選ぶ理由はあまりないだろう?」

「なんで、と言われても……。あえて言うなら看板が魅力的だったんです」

僕の言葉に、男は得意げな表情を浮かべた。

「あんた見る目があるなぁ!実は、あの看板は俺が描いたんだよ」

男の言葉に一瞬思考が停止する。看板、俺が描いた。二つの言葉が糸で結ばれたのは少し経った後だった。

「実は俺は看板屋を生業としていてねぇ。この店の看板も、仕事で描いたと

いうわけさ。自分で言うのも何なんだが、なかなか俺の店の看板は評判がいいんだぜ」

――看板屋は軽快な笑い声を上げて、焼き鳥にかぶりつく。ぼたりと肉汁が皿へと滴った。

「とりあえず話に戻ろう。まあ月が美しかったものだから、月見酒と洒落込もうとしたんだ。一日の仕事を終えた後、買ってきておいた酒を取り出して仕事場の外で一杯やろうとした」

ちょうどこんな具合にね、と看板屋は徳利を手に取った。透明な酒がとくとくと盃に注がれる。それをぐいと飲み干して彼はにやにやと笑った。

「そして一杯やろうとしたまさにその時だ、後ろからか細い声で俺のことを呼ぶ奴がいる。こんな遅い時間に誰だろう。そう思いながら振り向くと、そこには白い兎が数羽いた」

……兎、というのはあの白い兎のことですか」

「ああそうさ。あの動物の兎だ。長い耳をして、ふわふわとした毛並をもつあの兎のことだ」

白い兎が目の前の男に話しかけている図を想像する。胡散臭そうなつなぎ姿の男に、ふわふわとした毛並の兎がか細い声で話しかけているのを。そのあまりの不可思議さに思わず吹き出すと、男は少し眉を顰めた。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。陽気なようでいて少し男は短気なようだった。

「俺だって最初は驚いたさ、なんで喋る兎がここにいるんだろう、俺は夢を見てるのだろうかってね。でも夢なんかじゃあなかった。頬をつねっても痛かったんだから」

そんなことで夢と現実を区別してもいいんだろうか。いぶかしそうに見る僕を意とも介さずして男は続ける。

「そしてその中の一羽は俺にこう言った。あなたが噂の看板屋ですか、もし宜しかったらお願いがあるのですってな」

「兎がお願い……。月に絵でも描いてくれって言われたんですか?」

冗談交じりに看板屋に尋ねてみる。彼はそのまさかだ、と笑いながら言った。おいおい、嘘だろう。冗談のつもりだったのに。

「そうとも。兎はこう言った。月の影というのは実は兎どもからしたらご神体なんだそうだ。昔話であっただろう、自ら炎に飛び込んで神の供物になろうとした兎の話が」

その話は知っている。確か昔自分に動物たちがどれくらい献身出来るのかを知ろうとした神がいた話だ。たくさんの動物がとってきた果実や魚を捧げる中、何も供物が得られなかった兎は自らを犠牲にして供物になろうとしたという。兎は燃え盛る炎の中に飛び込む直前に神によって救われ、その行いを讃えた神によって月面に絵を描かれたのだとも。

「ところがその影というのが最近あまりそれらしく見えなくなってきた。ほら、他の地域だと月の影は兎だと限らないだろ。髪の長い女だったりとか、痩せたつむじの男だったりとか。それに対して世の中の兎どもは怒りを覚えているらしいのさ。先祖を讃えた絵のはずなのに、我々が勝手に兎以外の物に解釈していることがね。まあ例えるなら、キリスト教徒に向かって神は仏陀だ、とでもいうようなもんじゃないかね」

月には兎が居てもちをついている。僕たちはそう教えられてきたけれども確かに他の形に思えなくもない。星座だってそんな形に思えないものを勝手に思い込んでいるだけなのだ。月の影だってはっきりとした兎の形というわけじゃないだろう。

「そこでだ、兎どもはこう思ったらしい。はっきりとした兎の絵を描けば、月が兎以外のものを映しているなんて思わなくなるだろうと。だから俺のところにやってきて月に兎の絵を描いてくれといったのさ」

随分とほら話のスケールが大きくなってきた。最初話し始めた時はこんな風になるとは思わなかったのに。半信半疑で目の前の男を見つめるものの、相変わらず飄々とした笑みを浮かべて焼き鳥にぱくついている。

「でもどうやって描いたんです?まさか月に行ったわけではないでしょう」

「そう、そこなんだ。兎どももロケットや飛行機なんてものを持っているわけがない。だからどうやって描くんだと尋ねたらこう言ったんだ。水の入ったバケツを用意して下さいって」

「水とバケツ……?」

「そう、水とバケツ。そして夜空に浮かべた月をバケツの中の水に映し出して……取り出したんだよ、丸い月を」

そんな馬鹿な。どこぞの魔法学校で主人公が賢者の石を取り出した方法じゃあるまいし。思わず絶句すると男はにやりと笑って盃の酒をぐびりと飲んだ。

「月はまるくてすべすべとしていた。そうだな、まるで餅みたいだったんだ。鏡餅ってあるだろ、あれと姿形殆ど変らなかった。大きさもな。そして兎は俺に月を差し出したんだ」

ほら話もここまで行くと、スケールが大きすぎてよく分からない。現実にそんなことが起きるわけない。でも夜のような男の目や語り口を見ていると、本当のことのように思えてくるから不思議だ。

「で、俺は兎たちの前で絵を描いた。我ながら見事な出来だったな。兎たちも最初は半信半疑だったが、俺がこの兎は何よりも強いインパクトを与えると言ったらひどく納得していたんだ。そして、これが昨日の話なのさ」

「昨日……随分と最近の話ですね」

「まあそうだな。そして俺はこの話を誰かに聞いてもらいたくて、今隣の席にいる赤の他人のあんたに話したというわけだ」

そこまで男が言ったところで、僕の注文した熱燗と刺身がとどいた。店の女が間を指すように男と僕の間に割って入り、刺身と熱燗を置く。刺身は宝石のように艶やかに光を反射した。

「まあ、この話を信じるか信じないかはあんた次第だ。酒の肴としてでも聞いてくれたらいい」

そう言って男は立ち上がる。勘定、と店の女に声を掛けた後、男がその席に戻ってくることは二度となかった。

一人で少し退屈に思いながらふと、店の上の方に置かれていたテレビを見る。相変わらずニュースキャスターはつまらないニュースを読み上げ、批評家たちはくだらない論を交わす。テレビから目を背けようとしたまさにその時、キャスターが画面の向こうで訳の分からないことを言いだした。

『誰がやったのか、月の表面にバニーガール』

そういったテロップが画面下に流れる。同時に画面は今日の月の様子を映し出した。真っ白くて丸い満月の表面に描かれたバニーガールを。いや、まさか。先ほど出て行った胡散臭げなつなぎ姿の男の姿が脳裏に浮かぶ。まさか本当だったなんて。なかなか面白いことをしてくれるじゃないか。思わず笑みが口からこぼれた。

白い徳利を傾けてとくとくと酒を盃に注ぐ。透明な色のそれは店の電球を反射して、さながらバケツの中の月のように明かりを盃に映し出した。バケツの中の月とバニーガール……まるでどこかの童話のようだ。まあ童話にしては破茶滅茶であるけれども。そのまま僕は盃の中の酒をぐいと飲み干した。