鏡二人地獄
寄木 露美
ある日の朝、目が覚めた俺が顔を洗うために洗面台へと向かった時。顔をあらってふと鏡を見たら、俺の背後を少女が横切った。後ろを振り返ったものの当然誰もいない。気味悪く思いながらも俺はそのまま歯を磨いた。
またある日の昼、大学の便所にて手を洗ってハンカチを鞄から出したその時、鏡の中の俺の隣に少女がいた。あわてて周りを見渡したが、誰も便所にはいなかった。
別のある日の夜、友人と喧嘩別れをして一人で繁華街を歩いていた時。いらいらとしながら街を歩いていてふと店の大きなガラスを見た時、少女は俺に歩調を合わせながら跳ねるように歩いていた。自分の真横を確認した後再びガラスを見ると、少女はいなくなっていた。
いつからだろう、少女が鏡の中に現れるようになったのは。俺が鏡を見た時、彼女は大抵俺の隣にいた。時には恋人のように寄り添っていたこともあった気がする。鏡の中に少女を見た後に周りを見回しても実際に俺の隣に少女がいるなんてことはなかったし、その後鏡を見ると、少女はいつもいなくなっていた。
もちろん初めは友人に相談したりした。しかし返ってくるのは失笑や嘲りだけだった。また俺自身が精神的におかしくなったのかと医者に行ったこともあったが俺の体は至って健康体だった。ただ鏡の中に少女を見出すというだけで。そしてこうしているうちに気が付いたら少女が鏡の中に現れるようになって一か月がたっていた。
最初のうちは気味悪く思っていた俺だったが時が経つにつれてあまり気にならなくなってきた。何せ相手がやることといったら鏡の中に映るだけなのである。どこぞの七不思議のように鏡の中に引きずりこむのだったら別だが、少女がそんなことをする気配は一向になかった。
鏡の中の少女との生活に慣れてきたある日のことだった、あのことが起こったのは。元々俺は友達もいない方だったし鏡の中に映る少女の話をしてからはさらに友人が減っていたのだがそんな俺にもあこがれていた人がいた。彼女の名前は仮に佐藤さんとでも言っておこう。その日は幸運にも佐藤さんと授業で同じグループになることができたので俺の胸はひどく高鳴っていた。そして気持ちが高揚していた俺は佐藤さんに何度か話しかけることが出来、なんと最終的にはメールアドレスまで交換してもらえたのである。なんとかグループでの学習を終え、俺は次の教室へと移動していた。その時ふと気が付いたのだが、前の教室に携帯電話を忘れていた。慌てて取りに戻ろうと教室前まで引き返し、教室のドアをあけようとしたその時。かすかに佐藤さんと友人たちの声が聞こえてきた。今思えばここで携帯を諦めて引き返せばよかったのかもしれない。もしくはすぐにドアを開けて携帯を取りにいければ。しかしなんとなしに俺はドアの前で耳を澄ませてしまった。
「ねえ、佐藤あいつと仲いいの? 授業中めっちゃはなしかけられてたよね」
「……へ? そんなことないけど」
「だってメルアド交換してたじゃん。だから最近仲良くなったのかなって」
「あはは、そんなわけないじゃん。むしろ一方的に話しかけられてすごく迷惑だったしね」
「だよねー。佐藤があんなやつと仲良くするわけないよねえ。一回鏡見直してきなよって感じ」
「鏡といえば知ってる? あいつ前に鏡の中に女の子が見えるっていっていたの。自分が女の子に飢えてんのかしらないけど気持ち悪いよね」
「え、まじで? 気持ち悪っ! 自分の妄想が具現化したんじゃなくって? 前から何考えてんのか分かんなかったけど頭おかしいんじゃないの」
「だよねー。あんな気持ち悪い奴消えればいいんだよ」
「生まれてきたのを詫びて消えろって? あはは、相変わらず佐藤は手厳しいねー」
そこまで聞いてもう限界だった。俺は何かに追われるかのように教室前から逃げ出した。いや、実際に彼女たちの暴言から逃げようとしていたのかもしれない。可憐な外見の彼女たちが表情を歪ませて俺への暴言を吐いているのを想像するだけで俺は嘔吐しそうになったのだ。
気が付いたら俺は男子便所の洋式便器に嘔吐していた。ああ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。佐藤さんが俺への暴言を吐いていたとか、教室へ置いてきてしまった携帯をどうしようかとかそんなことはどうでもよくてただ俺は可愛らしい外見の彼女たちの酷く醜い呪詛のような一面を垣間見てしまったことに大きな衝撃を受けたのだ。
一通り胃の中のものを吐き終わって口を濯ごうと洗面台へと向かい鏡を見たその時、鏡の向こうから俺を心配げに見つめている彼女と目があった。
「……何だよ。てめえも俺のこと気持ち悪いとか思ってんだろ。てかそもそもなんで俺の前にだけ現れんだよ。てめえのせいで俺は今こんな目にあってんだぜ。分かったらなんか弁解でもしてみろ。もしくは消え失せやがれ」
その言葉を聞いた彼女は一瞬傷ついた顔を俺に見せ、俺の傍から離れようとした。しかしその後何を思ったのか鏡の中の俺に近づいていった。俺がまたそいつに八つ当たりの言葉を吐こうとしたその瞬間、鏡の中の彼女は背を伸ばして鏡に映る俺の頬に口づけた。そして何が起こったのか一瞬分からなくなった俺の隙をついて鏡の向こうへ消えた。
あの後大学の授業を終わらせた後、俺は下宿に戻っていた。とりあえずあの昼の出来事以降、俺の中の少女に対する気持ちはよく分からないもやもやとしたものになっていたのだ。とりあえず手を洗おうと、俺は洗面台へと向かった。そして鏡のすみで縮こまっている少女を見つけた。
「……おい」
俺の声に彼女は一瞬体をぴくりと震わせ、怯えた目で俺を見た。
「……その、昼間は悪かった。俺が悪いのにお前に八つ当たりなんかしてさ。あとさ、その、ありがとな」
その言葉に彼女は目を輝かせ、鏡の中の俺に後ろから抱き着いた。もちろん抱き着かれたような感覚はなかったものの、彼女の体温が伝わってくるようで心が少し暖かくなった。
それからだった、俺が部屋全体に鏡を置き始めたのは。どうやら俺は少女に恋をしてしまったらしい。そして彼女が俺に抱いている思いもどうやら同種のもののようだった。いつでも彼女が傍にいるのを感じていたい、彼女を見ていたい、そんな思いが増して俺は部屋全体を鏡で埋め尽くすことにした。
最初は部屋中に全身鏡や置き鏡、かけ鏡を置くことで満足していた俺だったが、だんだんそれだけでは足りなくなってきた。なにせ鏡が小さすぎるのだ。これでは彼女の全身をまんべんなく見ることもできない。また部屋に置いてある家具もただ俺と彼女の間を邪魔するものでしかなかった。これらのものがあるせいで鏡を置くスペースが減ってしまうのだ。俺はさらに大きな鏡を買い、家具を全て捨てることにした。彼女をいつでも見ていられるのならこれぐらいの代償は大したことはない。
家具を全て捨てて部屋中を鏡で埋め尽くした俺だったがまだ不満が残っていた。やはりそれぞれの鏡自体の大きさが小さすぎるのである。何というか俺は俺に寄り添う彼女がもっと見たいのだ。この問題が解決しないなら俺と彼女の心の平安は訪れまい、そんなことを俺は思った。
どうすれば良いのか考え抜いた結果、俺は壁自体を鏡で覆ってしまうことにした。もちろんそんなに大きい鏡は売られていない。なのでそれまでに買っていた鏡を全て分解し、タイルのように壁に貼り合わせていくことにした。もちろん壁に張る鏡の数は膨大でなければならず、そのうち家にあった鏡では足りなくなったので足りなくなったので近くのホームセンターへ行って鏡を買い占めた。店員からはまるで基地外を見るような目で見つめられたがそんなものはもう怖くなかった。なにせ俺には彼女がいるからだ。
一方その彼女はというと、俺の始めた作業に対して興味深々であるようだった。俺が鏡を壁に張るたびに彼女は貼り終わった鏡へと移動して、楽しそうに飛び跳ねた。
「もうすぐだ。もうすぐお前と一緒に居られるようになる」
そんな俺の言葉を聞いて彼女は心なしか嬉しそうに頷いた。
そしてとうとうその日がやってきた。彼女と俺がずっと一緒に居られる世界が作られる日が。もう大学も佐藤さんも全てどうでもいい。俺にとっての世界は彼女と鏡が張り合わされたこの部屋だけだ。俺は彼女と共にこの小さな世界でずっと過ごすのだ。新しい世界に対する期待で胸をいっぱいにしながら俺は唯一鏡のかかっていない壁の一部分に手を伸ばした。
世界を構築する作業が終わった後、俺が真っ先に感じたのは大きな達成感だった。これで全てが終わった。鏡の中の彼女も嬉しそうに俺の元へ駆けてきて、そして俺に抱き着いた。そのまま俺の胸元に頬を寄せ、幸せそうに微笑んだ。
…………おかしい。全てが終わったはずなのに俺に押し寄せるこの虚無感は何だ。新しい世界を創造したはずなのになぜこんなにも満たされない。俺の様子がおかしいことに気付いたのか彼女が俺の頬へと手を伸ばす。そしてそのまま俺の頬を軽く撫でたが俺にその温もりが伝わることはなかった。
鏡の中の俺は確かに彼女に触れられている、しかし何故現実世界の俺にはその感覚が伝わらない? 彼女がどれだけ俺に抱き着こうと触れようと口づけようと、俺には何も伝わらないじゃないか。思えば鏡の中の彼女は自分から触れはしたものの、俺から触れることは皆無だった。最も触れようにも彼女は鏡の中だ。ああ、どうしたら彼女に触れられるのだ。俺だって彼女がそうするように彼女をこの手に抱きしめたいしその薄い唇に口づけを落としたいし彼女の体の線をなぞりたいというのに。鏡の壁の前で俺はただ悶々とした思いに囚われた。気持ちそのままに鏡に掌を付け、項垂れる。なぜ彼女は鏡の向こうにいる。互いが互いを思いあっているというのに何故結ばれることが出来ない。いっそのこと、彼女がこちらの世界へ来るか俺が鏡の中へ行くことが出来れば。
その瞬間ある考えが頭の中をよぎった。ああ、何故もっと早く思いつかなかったのだろう。向こうに行くことなんて簡単じゃないか。あまりの自分の考えの素晴らしさに思わず笑みがこぼれる。それを見た彼女は少し驚いた顔をして俺の傍に近寄った。俺は彼女を見て微笑み、彼女に自身の意図を告げる。それを聞いた彼女は最初はいぶかしげな顔をしたがそのうち顔中に笑みが広がった。その笑みは聖母のようでありながらもどこか禍々しいものに見えたのは俺の気のせいだろう。
*********
僕が車を降りた時には大体の現場検証が終わっていた。遺体には布がかけられ現場は保護のために一部を除きブルーシートで覆われている。
現場となったアパートの中に入るとむっとした匂いが鼻をついた。この仕事を長年行ってはいるものの、いまだにこの匂いだけには慣れない。部屋の奥に向かうと後輩が顔をしかめながら作業をしている最中だった。
「よう、大体の作業は終わったかい?」
「ええ、なんとか。それにしても酷い状態でしたよ。何度も壁に顔を叩きつけられたのか、顔面が酷く損壊していましてね。元の人相がどんなだったのか全く分からない状態になっていました。鏡にもその、いろいろとこびりついていましたし」
「それはひどいな…」
「ただ現場を調べた限り、誰も室内に入った形跡がないんですよ。だからこの分だと自殺の線で片が付きそうです」
部屋の中を見回して後輩はため息をついた。
「それにしても随分と奇妙な部屋だな。部屋の壁全面に鏡が貼られていて、家具の類が一切無いなんて。窓にも貼られているようだし、被害者は何を考えてこんな部屋を作ったんだろう」
「なんというか、気が狂いそうですよ。私は。……そういえば、あの遺体、どうやら自ら頭を鏡に叩きつけていたかもしれないんですよね。まるで鏡の中に入ろうとしたみたいに」
「自分から鏡の中に、か。彼は鏡の中に何を見出したんだろうな」
「さあ。異常者の考えは常人には理解できないですから」
すべての作業を終えた後、僕と後輩は一足先に署に戻ることにした。後輩はこの部屋に気分をとことん害したのかさっさと帰りたそうにしている。鏡は異界につながっていると言うが、事実この部屋が異様な雰囲気をを醸し出していることは事実だ。
ふと、妙な視線を感じてシートのかかっていない鏡を僕は見た。しかし振り向いた所でとくに何も変わったものが写っているわけでもなかったのでそのまま現場を出ることにする。
鏡の中に妙に青白い顔をした男と、ひどく不気味な笑顔を浮かべた少女が居たような気がしたが、きっと気のせいだ。