茨の錘と百年の恋

                 寄木 露美

 

 彼女、エルフリーデが糸車に近づいてはいけないことを言われたのは彼女がうんと小さい時だった。王である彼女の父親曰く、彼女には十二人の妖精からの祝福がかけられたかわりにある一人の魔法使いから糸車の錘に刺されて死ぬことを予言されたのだという。だからこの国には糸車がないのだとも聞いた。彼女はそれを聞いて少し残念に思った、なぜならその死に方はとてもロマンティックであるように感じたからだ。老いや病に倒れるよりも錘で命を落とす方がずっとずっと。

 王女として生まれたにも関わらずエルフリーデはとお転婆に育っていった。彼女は部屋にこもって人形遊びをするよりも庭で下女の子供たちと駆け回る方が好きであったし、女の子だからという理由で着せられるドレスや長く伸ばさなければいけない髪は大嫌いだった。

 彼女はいつもお転婆に過ごしていたが、ある日庭の茂みに引っ掛けてドレスを破いてしまった。普段はエルフリーデに甘い両親もさすがにこれに対しては怒り、彼女を罰として自室に閉じ込めた。しかしそんなことにへこたれる彼女ではない。下女見習いの自分と同じくらいの背丈の少女と服を交換し、あっさりと部屋を脱出してしまった。そしていつも通り大好きな庭に行くべく城を抜け出した。

 しかし庭に行ってもその日は普段のように友人たちはいなかった。おそらくエルフリーデが部屋で罰を受けていることを母親たちから聞かされてそれぞれ仕事にいっていたのであろうが、彼女がそんなことを知る由もない。仕方ないので庭の片隅で立ち尽くしていたものの、一向に友人たちがやってくる気配はなかった。そうしてただ時間が過ぎて彼女が寂しさに頬を濡らしそうになった時、彼女のすこし頭上から声がかかった。

「どうして泣いているんだ?」

 彼女が驚いて振り向くと、そこには彼女よりいくつか年上であろう少年が立っていた。鴉の濡れ羽のように黒い髪に緑色の瞳、彼女の家族や貴族たちと比べて粗末な服装から見るにこの城で働いているのだろう。

「待っているのに誰も来ないの。普段はここにいたら皆遊んでくれるのに」

「……それは多分皆仕事があるからだろう。最近は昇天祭の準備で忙しいらしいから」

 その言葉に涙を滲ませた彼女を見て、彼は酷く動揺した。

「大丈夫。ほら、泣くな。まだ来ないと決まったわけじゃない」

 しかし彼女の目の潤みは止まらない。今にも泣きだしそうな彼女の涙を止めたのは、彼が懐から出した一輪の薔薇の花だった。その美しさに彼女は悲しい気持ちも忘れてただ見入る。

「泣いていたらせっかくの可愛い顔が台無しだ。これをやるからほら、泣き止んで」

 少年はにっこり笑って彼女に薔薇を差し出す。

「これ、もらっていいの?」

「別にいい。俺、庭師の弟子だからこっそりとって来れるんだ。ばれたら怒られるから内緒にしてもらいたいけれど」

 彼女は彼の言葉に満面の笑みを浮かべて頷く。

これが彼、ヴィルヘルムとエルフリーデの出会いだった。

 

 

 そしてそれから八年後、エルフリーデは美しい少女に成長した。亜麻色の髪は美しい光沢を放つ糸のようで水色の瞳は澄んだ水のよう、ミルク色の肌にはどこにも黒子や染みが見当たらない。相変わらず性格は少しお転婆であったものの昔よりは大分落ち着き、レディとしての自覚も少しずつ芽生えていた。城からの脱走癖があることを除いては。

「こんにちは、ヴィル」

 エルフリーデの声に薔薇の剪定をしていたヴィルヘルムが振り向く。彼も八年のうちに美しい青年へと成長していた。彼は呆れた顔でエルフリーデを見る。

「またいらしたのですか、エルフリーデ姫様」

「エルフリーデ姫じゃないわ、エルフィよ。少し前までそう呼んでくれたじゃない」

「貴女が構わなくても俺が構うんです。いいかげん俺たち下々の者とは身分が違うことを理解してください」

「嫌よ。あんな偉そうな奴らと一緒にされるなんて。あいつらのくだらない自慢話に付き合うくらいなら、ここでヴィルと一緒に喋っていた方が楽しいわ」

 ヴィルヘルムはその言葉にため息をついた。

「姫様、俺がいいたいのはそういうことでなくてですね……」

「そういうことでないならどういうことよ」

「……いい加減、あなたが女性であることを理解してください。俺だって男です。いつ間違いが起こるか分かりはしない」

「いいわよ。ヴィルなら」

「……は?」

「わたしはヴィルならいいの。ううん、あなたががいい」

「……姫様。冗談はやめてください」

「冗談なんかじゃないわ! それにわたしは姫様じゃない!」

「……エルフリーデ、帰ってくれ」

 ヴィルヘルムは無表情にそう言った。エルフリーデはその言葉に驚愕した表情を浮かべた後、泣きそうになりながら踵を返した。

「……俺だって、本当は貴女を」

 遠ざかっていくエルフリーデの姿を見ながらヴィルヘルムは呟いた。その言葉が彼女に届くことはなかった。

 

 

 城に帰ったエルフリーデは自室のベッドに顔を埋めながらひとしきり泣いていた。彼女としては彼に投げかけた言葉は全て彼女の本心のつもりだった。

 いつからだろう、彼が男性として気になり始めたのは。彼から薔薇をもらってから時間あらば彼女はいつも彼の元へ行き、いろいろな話をした。彼は庭師の弟子であり、いつも裏庭で薔薇の剪定をしていたから彼の場所を見つけるのは簡単だった。彼は彼女が王女だと知ってから驚いたようではあったがそれでも変わらず接してくれた。ここ一年ほどを除いては。

 いつからだったか昔に比べて友人たちが余所余所しくなりはじめた時も彼は普段通りエルフリーデに接してくれた。それがここ一年ほどで急に彼女に対して彼はそっけない態度をとるようになったのだ。彼女としてはそれがとても心寂しく、悲しいことだった。

「ほんと、なんなのよ。ヴィルの馬鹿」

 彼女は自分の枕元に飾られた薔薇の押し花を見た。ヴィルヘルムと初めて会った時、彼がくれたものだ。花が朽ちてしまうのが嫌だったから彼女はそれを押し花にして、額縁にいれて飾っていた。彼女がそれを眺めながらため息をついた、その時だった。下女が彼女の部屋へ来たのは。

「王様が呼んでおいでです、姫様」

 彼女はヴィルヘルムのことで頭がいっぱいになりながらも王の部屋へ行った。

 部屋では王が寛いだ風体で待っていた。普段は政務で忙しいこともあり、落ち着けるのは自分の部屋だけなのだろう。

「お前も明日で十五歳になるな。随分大きくなったものだ、姫よ」

 彼女の父親は穏やかな笑みを浮かべながら言った。

「実はな、お前には許婚の王子がいるのだよ」

「……え?」

 それから何を言われたのか彼女はほとんど覚えていない。ただ自分には婚約者がいること、そして十五の誕生日の後には婚礼をすぐに行ってしまうということだけが頭の中でぐるぐるとまわっていた。

「……そういうわけだ。異存はないな、姫よ」

「……嫌です」

「ふむ、嫌といってもな。これはどうしようもないことなのだよ。お前が生まれた直後に隣国の王と約束してしまったのでな」

「でもわたしは嫌なんです、お父様。わたしには……」

「……もしやあの庭師の男ではあるまいな。可哀想だがあんな身分の低い男にお前を任せるわけにはいかぬ。今までお前の我儘を聞いてやってきたがこれだけは譲るわけにはいかぬよ」

 それからエルフリーデが何をいっても王は彼女の言葉を聞きはしなかった。ただ淡々と、婚礼を明後日行うことを述べた後、彼女は部屋へと返された。

 もっとも部屋へ返されたとて黙っている彼女ではなかった。彼女は下女の目の隙をついて部屋をこっそりと抜け出した後、ヴィルヘルムの元へ向かった。ただ己の身一つをもって。

 ヴィルヘルムが彼女の訪問を受けた時、彼は城の庭の片隅にある庭師小屋にて休息をとろうとしていた。彼はいきなり訪ねてきたエルフリーデに驚き、すぐに返そうとしたものの普段と違った切羽詰まった雰囲気の彼女を見て部屋に招き入れた。

「わたしには婚約者がいるらしいの。それで明後日には私とその人を無理やり結婚させてしまうんですって」

「…………」

「……ねぇヴィルヘルム、わたしをつれて逃げて」

「……姫様、それは」

「何も知らない男と無理やり結婚させられるなんてわたしは嫌。それにヴィル、わたしはあなたのことが」

「姫様。それは出来ません」

 ヴィルヘルムは彼女の言葉を遮るように言った。

「何で! 仕事を失ってしまうから? 犯罪者になってしまうから? それとも、わたしのことが嫌いだから……?」

「……そんなわけ、ないだろう」

「……ヴィル?」

「俺だって貴女のことは愛してる、でも駄目だ。俺みたいな身分の低い男と一緒になるよりも王子と結婚した方が幸せに決まってる。だから貴女は俺のことなんて忘れて幸せになるべきなんだ」

 ヴィルヘルムは何かを押し殺すような表情で言った。さながらそれは自身に言い聞かせるようだった。

「……ヴィル、わたしはあなたと一緒じゃなきゃ幸せになんてなれないわ」

 エルフリーデは呟くように言った。ヴィルヘルムはしばらく黙った後、口を開いた。

「……エルフリーデ、俺は」

 その時だった。小屋のドアを叩く音が小屋全体を軋ませたのは。二人が驚いてドアを見るのと寸分違わず城の兵士が小屋になだれ込んでくる。

「庭師のヴィルヘルム。姫様を誑かした罪で連行させてもらう」

 近衛隊長と思われる男が一歩前に出て、ヴィルヘルムの腕をつかんだ。

「ちょっと待って、どういうことなの? ヴィルヘルムはそんなことしていないわ!」

 エルフリーデの言葉を無視して男は続けた。

「そして姫様、あなたは明日の誕生日の祭典まで部屋に謹慎せよとの命が陛下からなされた。よって今すぐ部屋へ帰ってもらおう」

 そして彼は捕えられ、彼女は部屋へと強制的に戻されてしまった。彼女がいくら抵抗しても、屈強な兵士たちはびくともせず彼女を部屋まで連れていった。喧噪のさなかに彼女は髪に着けていた薔薇の意匠の髪飾りを落としてしまったがそのことにすら彼女が気づくことはなかった。

 

 

 そして誕生日当日。エルフリーデがあれから部屋を抜け出すことはなかった。いや、なかったというより出来なかったのである。なにせ彼女の部屋の前には屈強な近衛兵士が二人鎮座しており、下女も彼女につきっきりであった。

 誕生日の祭典は盛大に行われた。城に住むもの全てに豪華な食事が振る舞われ、国中が祝いの雰囲気に包まれた。ただ当の本人であるエルフリーデだけは浮かない顔で壇上に座っていた。

 そして祭典が終わって皆が寝静まった時を見計らい、エルフリーデは再び部屋を抜け出した。祭典で酒が振る舞われたせいか近衛兵たちは眠りこけており、下女たちが彼女に気づくことも無かった。

 彼女は真っ先にヴィルヘルムがいるはずの庭師小屋へと向かった。最も彼は近衛兵に連行されてしまったけれどもしかしたら祝日の恩赦によって小屋へと帰っているかもしれないと思ったのだ。

 彼女の淡い期待はすぐに砕かれた。小屋の中にはヴィルヘルムはおろか彼の私物すら置かれていなかったのである。ただ持ち主を失った小屋は寂しげに彼女を迎えただけだった。おそらくヴィルヘルムは彼女を置いていってしまったのだろう。彼女の心は絶望で真っ黒に染まった。

 どこへ行くとなく城の中をふらふらと歩いたエルフリーデが最終的にたどり着いたのは城の中でも彼女の居住からかなり遠く離れた場所にある塔だった。生まれてこの方城に住んでいた彼女ですら存在を知らなかったほどその塔はひっそりとたたずんでおり、どこか人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。しかし一方でその塔はどこかエルフリーデを招いているようだった。まるでずっと前から彼女を待っていたように。

 塔の中は暗く、ただ月明かりが照らしているだけだった。彼女は引き寄せられるように塔の階段を上り、そして最上階の部屋へとたどり着いた。

 最上階には小柄な老婆が部屋の入口から背を向けて座っていた。彼女は王が全て燃やしたせいでこの国にはもうないはずの糸車で糸を紡いでいた。そしてエルフリーデが見ていることに気がついたのか彼女の方へ振り向いてにやりと笑った。

「こんばんは、お嬢さん。こんな所まではるばるようこそ」

 彼女がただ唖然に取られていると、老婆は椅子から降りて、彼女の元へと寄った。

「おばあさん、あなたはここで何をしているの?」

「糸を紡いでいるのさ、この糸車でね」

 糸車、それは小さいころから両親に近づくなと言われたものじゃなかったか。糸車の錘によって自分は死ぬ、確かそう予言がなされたのだと聞いた。逆に言えば錘で体を刺すことで、自分は死ぬのではないだろうか。そんな彼女の考えを見透かしてか老婆はこう続けた。

「よかったらお嬢さん、やってみないかね。嫌なことなんて全て無くなってしまうよ」

彼女は少しの間考えた後、老婆の考えに従った。どうせヴィルヘルムに捨てられてしまったのだ。この世界に未練なんてない。彼女は糸車の錘へと手を伸ばし自らその指先を針へと押し当て、そして指先を傷つけた。

その瞬間エルフリーデの意識は薄れ、その場に倒れこんだ。それと同時に城のいたるところから茨が生え、物も人間も全てお構いなしに茨の中に閉じ込める。老婆はにやりと笑みを浮かべて彼女を部屋のベッドに寝かせた後、何処へと姿を消した。

 

 

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 そして、百年が経過した。

 

 

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 エルフリーデが目を覚ましたのは誰かが彼女の唇に口づけを落としたことに気付いた時だった。

「……ヴィルヘルム?」

「誰だい、それは」

 目を覚ました彼女の前にいたのはヴィルヘルムとは全く似ても似つかない男だった。黒髪緑眼のヴィルヘルムと違い、目の前の男は月の光のような金髪に紫の目をしている。そして整ってはいるけれどどこか人を凍りつかせるような美貌を彼はもっていた。

「あなた、誰?」

「王子さ。この城の呪いを解きに来たんだよ、茨姫」

「呪いって何? それに茨姫って…」

 王子は馬鹿にするようなまなざしで彼女を見た。

「自分が呪いにかかっていたことも知らないんだ。……まあいいさ、君が知っているか知らないかなんて些細な話だ。いいかい、この城は呪いによって百年茨に閉じ込められていたんだ。君は呪われた城に閉じ込められた茨姫として伝えられた。そしてその呪いを解いたのが僕ってわけ」

「……百年ですって? じゃあわたし以外の人はどうなったの」

「全員死んでたよ。常人が百年間も生きられるわけがないだろう? 君は幸か不幸か呪いによって百年前から何も変わらなかったみたいだけれど」

「……嘘よ」

「嘘じゃないさ、その証拠にこの部屋以外はほとんど朽ちて廃屋寸前になってしまっているんだから。ここから出て自分の目で確かめたらどうだい?」

 あまりのことに茫然とした様子の彼女をちらりと横眼でみて、王子はさらに続けた。

「まあそんなことはどうでもいい。どうせ君は僕の花嫁になるんだから」

「何ですって? 何でわたしがあなたと結婚しなくちゃいけないの」

「僕が呪いを解いたからに決まっているじゃないか。姫の呪いを解いた者が姫をもらうことができる、そういう決まりなんだから」

「そんなこと聞いていないわ! わたしは絶対に嫌!」

 王子は無表情に彼女を見つめた後、つかつかと彼女の元へ歩み寄り、彼女の顎をくいと持ち上げた。

「あのさ、君なんか勘違いしてない? これは君の意思なんて関係ないことなんだよ。だから君がどれだけ嫌がろうともどうしようもないってこと」

 王子がそのまま口づけを落とそうとした瞬間、エルフリーデは彼に平手を打った。

「……触らないで!」

 王子は赤くなった頬を抑え少し目に動揺を宿したものの、その直後に無表情となり、そのまま彼女をベッドへと押し倒した。

「ちょっと、何するの? 放してよ!」

「……どうやら君は自分の立場が分かっていないみたいだ。すこしお灸をすえてやらないと、ね」

 エルフリーデは力の限り暴れて王子から抜け出そうとしたものの、一瞬の隙に両手を肩の上で拘束されてしまい身動きが取れなくなってしまった。彼はそのまま彼女の上に馬乗りになり、悪魔のような微笑みを浮かべる。

「さあ、やんちゃな小娘にお仕置きをしてあげよう」

 

 

 その後何をされたのか彼女はほとんど覚えていない。ただ気が付いたら全身が酷く痛み、身に着けていたものはことごとくぐしゃぐしゃにされていた。何度も抵抗し叫んだせいか声は上手く出ず、体の所々にはあざがいくつも出来上がってしまっている。

「君をこのまま持ち帰ってもいいんだけれど生憎僕にはやらないといけないことがある。とりあえず明日の朝にもう一度迎えに来よう。君はそれまでこの城に思う存分別れを告げるといい」

 乱れた衣服を直しながら、王子は彼女に言った。

「ああそうだ、逃げようなんて思わないでね。百年も眠っていた君の体力じゃあここから逃げられたとしても、すぐに僕が追いつける距離にしかいけないし無駄だよ。それに僕だってそんなことをされたら悲しい、君にもう一度お仕置きをしなければいけなくなってしまうんだから」

 彼の言葉に怯えた表情を見せたエルフリーデを見て、彼は満足げに笑った。

「じゃあ、また迎えに来るよ。いい子にしていてね」

 そう言い残して彼はこの城を去っていった。

 エルフリーデは全てにおいて混乱していた。目覚めたら百年が過ぎていたこと、見知らぬ男が自分にかかっていた呪いとやらを解いたこと、自分の知っている人間は全員死んでしまったらしいこと、そして男にされた仕打ち。これは性質の悪い悪夢に違いない、そう思えたらどれほど良かったのだろう。彼女はもう既にいっぱいいっぱいだった。

 そういえば、ヴィルヘルムはどうなったのだろう。あの男は城内の人間は全て死んでいると言っていたものの、もしかしたら全てはったりであるのかもしれない。エルフリーデは痛む体を引きずりながら城内を探索するために塔から降りた。空には既に月が出ており、彼女が眠りにつく前と変わりのない光で全てを照らしていた。

 城の中は余すこと無く茨で覆われ、男が言った通り廃墟同然になっていた。これでは本当に茨の城そのままではないか、彼女は驚きながら城内へと向かった。

 大広間にたどり着いて足を踏み入れた瞬間、彼女は悲鳴を上げた。そこには彼女の誕生式典の様子がそっくりそのまま残っていたがそこに生者の姿は無く、全ての人々が余すことなく屍となって残っていたためである。あるものは頬杖をついて椅子に座った状態で、あるものは床に寝転がった状態で、そこにいる全ての人々は死者として未だに誕生式典に居た。嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。こんなもの全部嘘に決まっている。そう信じたい思いは彼女自身の体の痛みによって全て否定された。彼女はしばしの間そこに茫然と立ち尽くしたものの、広間から逃げるように踵を返して走り去った。

 広間、いや城中の亡者から逃げるように彼女は出口を目指して走った。もちろん屍が追ってくるわけではない。しかし城に閉じ込められてそのまま死んでいった全ての人々の怨嗟の声が聞こえるような気がしたのだ。走って走って走って、そして彼女は出口へとたどり着いた。

 城をでてただ彷徨うがままに歩いたところ、彼女はある場所にたどり着いた。かつて庭園であったはずの場所はその面影を残すところなくただ茂るがままに樹木を茂らせている。そうだ、ヴィルヘルムの庭師小屋はどこにあるんだろう。既に朽ちてしまったんだろうか。彼女の足は知らず知らず庭師小屋へと向かっていた。

 結論から言ってしまえば、庭師小屋は朽ちてなくなっていた。後にはただ草木が茂っており、月光に照らされた花が彼女を迎えただけだった。やはりなくなってしまったのか、唯一の希望も無くしてしまった彼女が塔へと帰ろうと踵を返そうとしたその時、彼女の目に一本の道のように続いて咲いている薔薇の花が目に映った。それはさながら彼女を薔薇たちの向こうへといざなうようであり、

彼女はそれに導かれるように薔薇の花を辿っていった。

 薔薇を辿っていくにつれてぽつぽつと咲いていた薔薇の花は重なり合うように連なって生え、迷宮のように入り組んでいった。そして最終的に小さな空間へと彼女は導かれた。

 そこには一体の白骨が茨に寄り掛かる状態で残されていた。周りにはその人物の持ち物と思われる鞄と内容物がほとんど原型をとどめていない状態で朽ちており辛うじて形が分かるかどうかだった。またまるで白骨を守るかのように薔薇は白骨の周りを咲き誇っている。そして、白骨の近くには庭師の剪定鋏のようなものが転がっていた。

「もしかして、ヴィルなの?」

 エルフリーデが白骨の近くへ駆け寄ると、白骨の右手になにか光るものを見つけた。右手を壊さないようにそっとそれを抜き取ってみると、それは彼女が落としたはずの薔薇の髪飾りだった。所々錆びてはいるものの、ほとんど昔と変わっていない。

「……何でこんなもの持ってるのよ。あなたはわたしを捨てたんじゃなかったの?」

 白骨は答えない。しかし、ただの偶然であるかもしれないが彼女を導くように、そして彼を守る様に生えていた薔薇は彼の意思を示しているようだった。すなわち、貴女を愛していると。

「……馬鹿じゃないの。わたしを愛しているのならあの夜に連れ出してくれればよかったのに。たとえ裕福な生活が送れなかったとしても私はきっと幸せだったのに」

 知らず、知らず彼女の瞳から涙が零れ落ちる。それは彼女の頬を伝った後に空中へと零れおちて、朽ちてしまった彼の指を濡らした。

 

 

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 次の日の朝、侍従を従えた王子が茨姫を迎えに行くために塔を訪れると彼女はそこにはいなかった。やはり逃げ出したのか。そう思った彼が侍従に命令して城中を探させた所、彼女は意外なところで見つかった。城の庭園の隅で見つかったというのである。その知らせを聞いた王子が急いで向かった所、そこには既に冷たくなった彼女が白骨と寄り添うようにしていた。彼女の胸には錆びた剪定鋏が突き刺さっており、おそらくこれで自殺したのだろうと思われた。

「王子、申し訳ありません。我々が発見した際には既にこのような状態になっておりまして…」

「いいや、構わない。どっちにしろ彼女がこうなるのはなんとなく予測がついていたしね」

「……それにしても、まるで恋人同士のようですね。あの白骨と茨姫は」

「ようだじゃなくておそらく本当に恋人同士だったんだよ、彼らは。おそらく死ぬことでやっと一つになれたのさ」

「は、はあ……」

 侍従は困惑した顔で黙りこんだ。

「さて、行くよ。肝心の姫君がこんな風じゃどうしようもない」

「ちょっと待ってください王子! あのままにしていいんですか?」

「別にいいだろう、誰もこないだろうし」

「そういう問題ではないでしょう!」

 叫ぶ侍従を置いて王子は一足先に城から出ることにした。こんな死者の城にいる理由など彼にはもう見当たらないからである。

「……それにしても、あんなに簡単に壊れるとは思っていなかったな。こんどはもっと僕を楽しませてくれる姫君に出会いたいものだね」

 彼の独白は風に流され、誰一人として聞くものはいなかった。