「葉月様、如何なされましたか」
馬車に乗り込んだ葉月にそう言ったのは葉月の世話係を務める老人。八の字の眉に目を細め、灰色に白が混ざった口髭の老人は乗り込んできた葉月を見るなりそう言った。
「学校はもっと早くに終わっていたはずです。また寄り道をしていらっしゃったのですか」
懐中時計を取り出して見やる。
「ちょっと書物を見ていただけよ」
すまし顔で答える葉月。
「嗚呼、またお父様に叱られます……」
老人のお小言はいつものことだ。そんなものは軽く聞き流して、葉月は心の中で先の青年の言葉を反芻する。
(御機嫌よう、ですって)
ほんの少し口元を綻ばせた葉月は走る馬車から見える景色を目で追った。葉月と同じように袴を身に纏った女学生達と書生達が笑いあって歩いているかと思えば洋服を着た男性が闊歩している。皆自由に生きている。葉月は馬車の外にいる人たちが羨ましかった。学校が終わるとすぐに馬車で家まで向かうことを言いつけられている葉月は人生に退屈していたのだ。ほとんど学校と家にしか生活範囲のない葉月は外の世界が知りたかった。今日家の使いの者の目を盗んで書店へ寄り道したのもそのためだった。
(あのお方、素敵な人だったわ)
じっと見つめるあの視線を思い起こしながら甘いため息をつく。葉月を乗せた馬車は洋館のような造りをした大きな屋敷が立ち並ぶ方へと走っていくのだった。
「葉月、貴女にお話があるの」
その日の晩、十人くらいは座れそうな長机に物珍しい洋食が並んだ食卓で、父と母と三人で食事をしていた葉月に母が話を切り出した。
「お前ももうすぐ立派な大人。花堂家の一人娘としてこれからの人生を共に歩む相手が必要になってくるでしょう」
葉月には母がこれから何を言うのか分かっていた。学校の級友達も同じように親に言われているのを聞いていたからだ。
「決められた婚約者なんてごめんだわ」
深いため息。母の言葉を引き継いで父から言われた予想通りの言葉に辟易しながら食べるのもそこそこに自室に引き返した。葉月は自分の机に肘を付き、窓から見える月を眺めるのだった。
(嗚呼、あの方のような人と自由に話すことができたならどんなに良いでしょう……)
ふと思いついたその考えはその後葉月の頭から片時も離れることがなかった。


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