こうして、僕と扇との交際は始まった。とは言っても、特別なことは何もない。扇は学校内で関係が公になることを嫌い、また家が厳しいのか休日はまともに外出を許されない。必然的に、僕たちの交際は学校を出て家までの分かれ道だけのものになった。
 しかし、僕にはそれだけでも新鮮ではあった。女の子と付き合ったことのない身からすれば、女の子と秘密に待ち合わせるというだけで何か今までとは違う非日常を味わっているかのようだったのだ。

 とはいっても、それも一ヶ月もすれば霞んでしまったが。
 傍から見れば異様な交際風景であろう。しかしそれは、僕の望んだものであった。
  おかしい、変。
 その感覚を得ることこそ、僕が扇と付き合おうと決めた決定打なのだから。
 僕が睨んだとおり、扇はなかなかに特別な人間だ。
 彼女いわく、「恋人には自分を知ってもらうべきだ」という統計的な一般論――彼女に言わせれば平均的な思考によって、これまでの自分がいかに平均であるために努力してきたかを語ってくれた。
 これは、そんなある日の会話だ。
「なぁ、扇」
「睦美です」
「それ、テスト勉強とは言わないと思う」
「いえ、私のテスト勉強は、いかに良い点を取るかでなくいかに平均点を予想し、その点に近づくためにさりげなく問題を間違えるかなんです。そのため、授業やテストから教師方の採点や出題のクセを見抜くために傾向を練ります」
「聞いてると面倒くさそうだな。普通に勉強したら満点取れそうだな」
「? 満点なんて、全部正解すればいいだけじゃないですか。生徒の皆さんの理解力や実力を勘定に入れない分、よっぽど簡単だと思いますが」
 しかしそれは私の本意ではありません、彼女はそう付け加えた。
「私の座右の銘は、『己は平均たれ』ですから」
「うらやましいことだ。僕は一度でいいから満点をとって、特別扱いされたいよ」
「特別扱い、ですか。私は嫌ですね。絶対に身近にあってほしくない言葉の一つです」
「特別なことの何が悪いんだよ」
 ムキになって、僕は反論した。
「特別、というととても聞こえがいいですけど、それはほとんどの場合異質と読むんです」
 少しせつなそうに、扇は笑った。
「例えば、特別あつかいと聞くとビップ待遇なことではりますが、それは同時に孤独を生み出してしまいます。一人は、さみしいです」
「でもそのかわりに、多くの記憶に残るだろう。それは、平均的なものにはできないことだ」
 書学校の僕のことを覚えているのはたぶんよく遊んだ友人くらいで、その友人にしたって街ですれ違ったらわからないだろう。僕のような人間には、扇のいうことはひどく尊大で優れているからこその苦労をひけらかしているようにしか思えなかった。それはもちろん僕が勝手に嫉妬の醜い感情を煮詰めているだけで、彼女はまったく自覚していないだろうけど。だからこそ、業腹だ。
「記憶に残ることがそれほど大事でしょうか」
「そうは言わない。君のような人間がいる以上、それを否定しちゃあいけない。でも僕は、この僕は多くの人間の記憶に残る何かになりたいんだ。特別でありたいんだ」
「私は平凡でいたいです。おかしいものですわね。お互いがお互いに持たないものは焦がれ、持つものは疎んでいる。私は、特別なことに何一ついいものがあるとは思えませんのですけれど」
「僕は平凡であることに何一ついいことがあるとは思えない」
「常に周りに人がいるだけじゃありませんか」
「ただいるだけだ、埋もれているだけ。多くの人の記憶には残れない。それなら僕は、どんな方法を使っても特別に成るほうがいい」
「残っても、それは悪口や異質さをあざ笑うものでしかありませんわ。誰かとは寄り添えません」
 平行線だ。いや、ちがう。向かっているベクトルが全然ちがうのだ。どれだけ伸ばそう近くならないどころか、どんどん別の方向を目指して進むだけ。
 僕たちの考えは、決して同じ答えに行き着くことはないのだ。
 思えば、この会話がきっかけだったのかもしれない。
 それまであきらめていた感情に、不可能という烙印を押された気分。僕は、この後彼女が続けた言葉を忘れることはないだろう。
「私には、普通がわからないんです」
 僕にも、普通はわからない。けれど、そこに含まれる意味はきっと僕と彼女ではまったく違うのだ。
 分かり合えない。
 僕は、僕自身では特別にはなれない。
 ただ一言で、僕はそれを思い知らされたのだ。

続く→