3.目標の値
 さて、心は決まったところで、次は目標設定だ。こういうことにおいては、最も肝心な作業。簡単すぎず難しすぎず、加えて、できるだけわかりやすいものがいい。
 実は、それに関しては少しアテがあった。始業式、連絡、その他諸々の予定を終えた俺は、それを当たるべく、早速行動を開始した。
「失礼します」
 やって来たのは、この学校の保健室。お決まりの挨拶と共に部屋を開けるが、始業式の日なだけあって、誰も利用している様子はない。
しかし、人が誰もいないわけではなかった。デスクに向かい、黙々と何かを書いている女性が一人。ここの保険医(正確には養護教諭というらしいが、この人に“養護”なんて言葉は使うべきではない)の、狂野 歌楽[クルイノ カガク]先生である。
「ハァ……誰か知らんが、サボりなら今すぐ戻れ。体調不良なら黙って寝とけ。寝ても駄目ならとっとと帰れ」
 こちらを見向きもせず、作業の手も止めず、淡々とした口調で先生は言う。相変わらず、酷い仕事ぶりだ。もっとも、この程度ならまだ序の口なんだけど、な……。
「俺ですよ、先生。というか、今日は始業式なのに、サボりも体調不良もないでしょう」
 俺が声を掛けると、ようやく先生はこちらを向いてくれた。……が、俺の顔を見るなり溜息をついて、再び作業に戻ってしまった。
「寄りにも寄ってお前か。で、そう言うお前は、いったいなぜここにいるんだ? 日ごろの愚行のせいで、ついに親に捨てられたか? まぁ、お前のような子を持っていては、捨てたくなる親御さんの気持ちも二十分にわかるが」
「……そんなことを考えるのは、精々あなたぐらいのものだと思いますよ、歌楽先生」
 ……この通り、この人の性格はかなり酷い。しかし、その内面とは裏腹に、外見的にはかなりの美人なので、この人目当てにここを訪れる生徒が後を絶たない(流石に今は例外のようだが)。もっとも、そうして一時の安らぎを求めて来た奴は、大抵の場合、心に一生ものの傷を負って帰って行くのだが……。
 ちなみに、歌楽先生は俺の家のご近所さんなので、昔から結構つき合いがある。お前呼ばわりされているのも、ある程度毒舌に耐性があるのもそのためだ。
「……で、もう一度聞くが、捨てられたんじゃないんなら、お前はここに何をしに来たんだ?」
「っと、そうでした。先生、確かここに、高校生の平均身長が書いてある紙、貼ってありましたよね?」
「ん? あぁ、それのことか?」
 そう言って先生は、手にしていたボールペンで部屋の一角を指し示した。
 
 
 高校生の平均身長
 (男子)
  高1(15歳)……168.4cm
  高2(16歳)……170.0cm
     高3(17歳)……170.8cm
 
 
 あった、これだ。俺が探していたもの。
 平均身長。目標とするには持ってこいだ。高二だと、170cmか……。届くか微妙だが、決めたからには、全力で挑んでやる。
「それがどうかしたのか? お前の致命的な身長の低さなんて、今更確認するまでもないだろうに。Mにでも目覚めたか?」
「……本当、酷いことをさらっと言いますよね、先生は」
「事実だろう」
「そう、ですけどね……」
 少なくとも、この人がSなのは事実だろう。というぼやきは俺の脳内に留めておくとして、確かに、俺の身長が致命的なのも事実だ。だからこそ俺は、それに立ち向かい、克服しなければならない。そのためには――
「先生、ちょっと協力してほしいことがあるんですけど」
「断る。私は私の研究で忙しいんだ。知り合いの頼みで、こんなちんけな学校の保険医なんぞをしているが……それも研究優先という条件付きだ。ただでさえ少ない時間を、お前ごときに裂くつもりはない」
 まだ何も言っていないのに、ここまで徹底的に否定されるとは……。
 それにしても、研究家……。この人、音楽の先生みたいな名前しているくせに、中身は完全な科学者だからな。いや、読みだけなら、寧ろ正しいのか。“狂いの科学”……名は体を表すとは、よく言ったものだよな。
 けど、こっちだって、はいそうですか、と引き下がるわけにはいかない!
「お願いします! 先生の協力がないと無理なことなんです。協力してくれるなら、その間、俺を先生の実験体にしてくれても構いませんから」
 そう言った瞬間だった。
 勢いよく体をこちらに向け、刺さんばかりに、手にしたボールペンをビシッと突き付ける先生。ギラギラと煌めく眼は、正に“狂気の科学者[マッド・サイエンティスト]”のそれだった。
「今の言葉、本当だな……?」
「うっ……は、はい! もちろんですとも!」
 正直、こんなことを言うのはまずい気がするが、背に腹は代えられない。保険医としても科学者としても、先生はかなり優秀な人だ。この人の協力無くしては、この計画は成り立たないだろう。先生だって、さすがに命に関わることまではしないだろう。しない、はずだ……。たぶん……。
「いいだろう。で、私は何に協力すればいいんだ?」
「…………はっ。そ、そうでしたね。えっと……先生には、俺の身長を伸ばすのに協力してもらいたいんです」
「身長を?」
「はい。とりあえず、高二の間に――」
 壁の身長を思いっ切り手で叩く。
 保健室に響く、ダンッという大きな音。それが、計画の始まりを告げる合図となった。
 
「俺の身長を、平均まで届かせます!!」
続く→